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大学名が学歴だと思っていませんか

2025/9/27

学歴とは、大学名のことではありません。学歴とは、学位名に大学名を付記したもので、あくまで学位名が主体です。

学位名とは、日本では、たとえば「学士(文学)」や「修士(工学)」などのように表されます。これらは、その人物が取得した学位のレベルと分野を表しています。

(日本で正式に学位と呼ばれているのは、「短期大学士」、「学士」、「修士」、「博士」、「専門職学位」の五つです。専門職学位はさらにいろいろな種類に分かれます。この記事は、一部の人たちのあいだで大学名が学歴と同一視されている風潮をテーマにしたものなので、高等教育以上の学歴しか扱いませんが、いずれの学位も所持していない場合は、たとえば「◯◯中学校卒業」や「◯◯高等学校卒業」のようなものが、この記事で言う学歴に当たります。)

学位のレベル

UNESCOが定めている国際標準教育分類(ISCED)では、教育レベルが0から8までの9段階に分かれており、そのうち上位の三つ、レベル6、7、8が、日本で言う学士、修士、博士にそれぞれ当たります。この三つが、大学と大学院で受ける教育のレベルです。

学歴に「高い」や「低い」があるとすれば、それはこのレベル以外にありません。学士より修士が高く、修士より博士が高いことは、制度としてそのように決めたことなので、英検2級より英検1級が高いのと同じだけ確実なことです。たとえば学士であれば、学んだ分野や大学名にかかわらず、どの学位も大分類としては同じレベルです。

近代的な大学のシステムはヨーロッパから生まれたものですが、大学での教育を大きく三つに分ける上のような考え方は、アメリカで発展したシステムに大きな影響を受けています。ヨーロッパでは、伝統的にそれぞれの国によって大学教育のシステムに少なからず違いがありますが、現在では、ボローニャ・プロセスという枠組みによって、ヨーロッパ全体でできるかぎり学位のシステムを共通化しようとする取り組みがなされています。

アメリカのシステムをもとにした、学士、修士、博士の三段階に高等教育を分ける方法は、細かい違いこそあれ、日本を含む世界中の多くの国で一般的に使われています。なので、日本の大学で取得した学位も、他言語に訳せば国際的に通用します。

大学名の意味

では、大学名が学歴にとって持つ意味とは何でしょうか。

学位名は、それを取得した人物が受けた教育のレベルと分野を表しています。先ほど、学士であればすべて同じレベルだと書きましたが、それは、大学教育を三つの段階に分けるこの制度上での建前であって、実際には、同じレベルと分野の学位を取得するプログラムでも、大学によって教育内容に違いがあるのは当然です。日本では、文部科学省の認可を受けた大学だけが正式な学位を授与することができ、ほかの国でも同様なので、少なくとも建前上は、どこの大学で学位を取ろうと、すべての学位が一定以上の水準を満たしていることが保証されています。とはいえ、実際にある人物に学位を授与するかどうかの判断は、文部科学省ではなく、大学が独立して行います。だから、大学名も学位授与の主体として、学位名に準じて重要な意味を持ちます。

日本の学位規則第十一条には、

学位を授与された者は、学位の名称を用いるときは、当該学位を授与した大学又は独立行政法人大学改革支援・学位授与機構の名称を付記するものとする。(https://laws.e-gov.go.jp/law/328M50000080009)

と書かれています(大学改革支援・学位授与機構とは、大学とは別に学位を授与する権限を持っている機関です)。これは、学位名を書く際には、必ず大学名を書き添えなければならないということですが、このようなルールがあるのは、学位を授与する主体があくまで個々の大学であることを考えれば妥当です。

大学名の偏重

しかし、日本では一般的に、大学名が社会でまったく異なった役割を付与されてしまっています。日本社会では、友人どうしの会話など非公式な場ではもちろん、ある程度公式な場でさえ、大学名が学歴とほぼ同義の言葉として使われることが多いです。

この記事で言う学歴とは、ある人物がどのような専門的知識や能力を身につけ、それによって社会にどのような貢献をしうるかということについての公式で客観的な履歴のことです。その意味では、学位名こそが、ある人物が何の分野についてどれだけのレベルの学問を修めたのかについての国内外でコンセンサスの取れたもっとも客観的な基準であって、大学名はその補助的な役割を果たすにすぎません。

学位名は、その人物が修得した専門性のレベルと分野をひとことで表しています。もし上に挙げた例にあるような「文学」や「工学」のような表記では広すぎてよくわからないというのであれば、学部、学科、コースなどの名前を書けば、その人物が実際のところ大学で何を学んだのかより正確に知ることができるかもしれません。

一方、大学名は、その人が大学で何を学んだのかについてほとんど何も伝えていません。その大学名が学歴とほぼ同義に使われてしまっているのは、大学を入試難易度によって序列化することが一般的に普及してしまっているからです。

大学を入学後に得られる経験ではなく入学前に必要な勉強量で序列化することが日本で一般的なのは、大学が一部の特権階級の人たちのみのためのものだった時代から一般大衆が通う場所へと変化したとき、大学はあくまでモラトリアムを謳歌するところであって勉強するところではないという考え方が一般的に根づいてしまったからではないかと思います。

大学の序列

大学に序列をつけることはたしかに可能で、日本の大学ランキングにはたとえばTHE 日本大学ランキング(https://japanuniversityrankings.jp/)などがあります。これは、世界大学ランキングでも有名なTHE(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション)が日本のベネッセグループと協力して発表している、大学の教育力に重きを置いたランキングです。このランキングでは、大学の教育力が、「教育リソース」「教育充実度」「教育成果」「国際性」という4分野にまたがる16項目の基準で総合的に評価されています。

信頼できる大規模な日本の大学ランキングは世界の大学ランキングと比べると種類が少ないですが、THE 日本大学ランキングも、あくまでひとつのランキングにすぎず、これを鵜呑みにすることはできません。とはいえ、国際的に信頼された団体がはっきりとした基準を設けて作成したランキングであることから、ある程度客観的な序列と言えます。

よって、このようなランキングを利用して、学歴に学士、修士、博士の三段階以上の細かい序列を大学名に応じてつけることはある程度妥当性があるかもしれません。しかし、実際には、そうではなく、入試難易度をもとにした大学の序列が学歴の高低の判断に使われています。その序列は、河合塾やベネッセの模試から毎年算出される各大学の偏差値や実際に受験を経験した人たちの肌感覚から構成されます。

大学入試マニアのような人たちには、どの大学のどの学部の入試ではどのような問題が出題されて、どれくらいの倍率を乗り越えれば合格できるのかということがよく知られているため、大学名と学部名を言えば、どれだけ入るのが難しいかすぐにばれてしまいます。

しかし、入試合格歴と学歴とはほとんど何の関係もありません。入試合格歴は、大学名と同様に、その人が大学で何を学び、どのような専門性を身につけたかについて何も語っていないからです。

合格するのがとても難しい大学に入学できたのであれば、その事実は、その人物が大学入学前にどれだけ努力したのかということはある程度物語っています。しかし、大学入試で出題されるのはあくまで高校で習う内容であり、それは大学で勉強するための最低限の基礎知識となるもので、どの科目も専門的なレベルと言えるものではありません。

入試合格歴と学歴とはまったくの別物です。大学に行っていない人の学歴ではなく、大学に行った人の学歴であれば、大学入学前に学んだことではなく、大学入学後に学んだことを反映させなければならないのは当然です。裏を返せば、入学時点でどれだけの学力に達していたいかではなく、入学後に何を学びたいか、卒業時点でどのような人間になっていたいかで志望校を選択したほうがいいということです。

もちろん、大学の偏差値は、受験生が自分の合格可能性を判断し志望校を選ぶ手助けとするのに有効ですが、学歴の高低の判断に使うには、河合塾やベネッセが発表する偏差値の妥当性云々以前の問題です。

入学難易度は学歴とは無関係なので、入試に受かったけれど入学していない場合や、入学したけれど卒業していない(学位を取得していない)場合などは、そもそも入試を受験していない場合と学歴の観点では変わりません。これは、どんなに知識があっても試験に合格して一定の基準を満たさなければ免許や資格が得られないのと同じです。

大学名社会から学歴社会へ

日本は大学名社会であって、学歴社会ではありません。そもそも学位名としての学歴が話題にされること自体がまれです。

これは、そもそも日本には高学歴、つまり修士号もしくは博士号の所持者が少ないことがひとつの理由ではないかと思います。近年では、学部卒業者のうち大学院に進学する者の割合は一割を少し超える程度です。修士課程に進学した者のうち、さらにその一割程度が博士課程に進学します。自然科学や工学系の分野では大学院進学率は高くなりますが、それでも、日本社会全体では、大学院進学者は5%に満たない程度の人口にすぎません。

日本の修士号保持者や博士号保持者の割合は、ほかの先進国と比較すると、どの国と比べても数分の一からせいぜい半分程度です。日本では、ほかの国の潮流に逆行して、博士号取得者の割合が年々減少しています。

つまり、大学進学者が最終的に取得する学位はほとんどの場合学士であり、修士と博士は割合が少なすぎるから無視するとすれば、学士どうしで学歴の高低を競い合うためには大学名で競うしかなくなってしまうというわけです。そのうえ大学は勉強するところではないとなれば、入試難易度で大学の序列を決めることになります。

多くの学士取得者にとって大学院に進学する同級生が珍しいのと同様に、多くの修士号取得者は、博士課程に進学しないことが当然のため、大学院といえば修士課程であると思い込んでしまっている節があります。そのため、経歴を書く際に「大学院」と書くだけで「修士課程」と書かない修士号保持者がいるのをよく見かけます。

もちろんみんながみんなこのような生半可な学歴の感覚を持っているわけではありませんが、これがもっとも人口に膾炙した学歴の感覚ではないかと感じています。

日本で大学院進学者の割合が少ないいちばんの理由は、大学院進学者が企業などで人材として評価されないことではないかと思います。本当の学歴社会であるアメリカでは、非学位保持者、学士号保持者、修士号保持者、博士号保持者の順できれいに平均収入が上がっていきます。

日本でも、たしかに大学院卒業者は大学卒業者よりも収入が高いというデータが見つかりますが、修士号保持者と博士号保持者の違いについてはそもそもデータが見つかりません。多くのデータでは、修士と博士のふたつどころか、「大学・大学院卒業」と三つの段階がひとつにまとめられてしまっています。博士号を取得すると就職先が一気になくなるということはよく聞くので、高収入以前の問題でしょう。

大学院を卒業すると収入が高くなるというのも、おそらく修士課程進学率が高い理系の一部の分野の話であって、人文系などでは大学院卒業が企業などから評価されることはほとんどなく、そのため、それらの分野での大学院進学率はいつまでも低いままです。

日本では、企業や公的機関の経営層が学士保持者で占められていて修士号や博士号保持者がほとんどおらず、それは国際的にとても珍しいことだとよく指摘されています。

このような日本の現状は、日本が大学名偏重社会であり学歴社会になっていない実態と相関関係にあるのではないかと思います。鶏が先か卵が先かなので、どちらかがもう一方の原因になっているのかよくわかりませんが、社会の実態と一般大衆のあいだの学歴感覚がぴったりと呼応しています。

子どもたちと日本社会の未来のために

このような現状を打破するために、まずはひとりひとりが学歴感覚を改めることが大切だと考え、この記事を書いています。

この記事で話題にしている学歴とは、あくまで表向きの公式な履歴としての学歴です。裏向きには、友人とのカジュアルな会話のなかで、人の出身大学を入学難易度の観点からどうこう言うことがあってももちろん構いません。

しかし、たとえば公的機関や企業での人材採用などの公式な場で用いられる学歴は、あくまで本来の意味での学歴でなければ、社会の公正が保たれません。学士、修士、博士という区分には定義上序列がありますが、多様な大学には絶対的に客観的な序列というのはありません。である以上、建前上、公式の場では、何大学であっても、同じ学位の取得者は同じ学歴と見なければなりません。ひとりひとりの感覚として、「すごい」大学と「それなりにすごい」大学と「あまりすごくない」大学と「全然すごくない」大学があることは、理解できます。でもそれは、公式な場で表に出していい感覚ではありません。

学歴を大学名でのみとらえるような感覚は、多くの場合、子どもたちの両親や、学校の先生や、塾の先生や家庭教師などの子どもたちへの接し方によって助長されている部分が多分にあると感じています。そのような感覚を植え込まれた子どもたちは、自分が合格できるいちばん上の偏差値の大学を第一志望にするという方法でしか志望校を決めることができなくなってしまいます。

いまの日本社会では、大学名がものを言う世界があることは事実で、そのような世界で生きていきたいのなら、それを念頭に志望校を選ぶのが理にかなっています。しかし、そのような世界は社会全体のほんの一部でしかないことを知ったうえでその選択を行うべきです。

大学名としての学歴がものを言う世界と、学位名としての学歴がものを言う世界と、学歴なんて関係ない世界の三つがあります。そのなかのどこで生きていきたいのかを早めに決めてしまうと、志望校を決めやすいと思います。

いずれの世界で生きるにしても、志望校を決めるにあたって、どのような環境で何を学び、将来何をしたいかという基準のウェイトを高められると理想です。親が子どもの学費を払うとしても、子どもは親の持ち物ではありません。子どもに自分で行きたい大学を決めてほしいと思います。

大学名偏重の学歴感覚を子どもたちに植え込むことは、長期的に見れば、受験生個人の未来のことも日本社会の未来のことも蔑ろにする行為です。

私は家庭教師として、そのような指導はいたしません。

私は、マナリンクで中学生と高校生向けに以下のコーチングコースを開講していますので、ぜひ教科指導コースと合わせてご検討ください。コースについてのご質問などありましたら、お気軽にお問い合わせください。

  • 「将来どんなことをしたいかから一緒に考えるコーチング(中学生向け)」(https://manalink.jp/teacher/17993/courses/21315)

  • 「何をしに大学に行くのかから一緒に考えるコーチング(高校生向け)」(https://manalink.jp/teacher/17993/courses/21312)

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