伝説の先生の教材に、解説はほとんどなかった
教材を見せてもらって、正直、面食らった。
その先生はこの業界で知らない人間がいないくらいの存在で、長年にわたって難関校への合格実績を積み上げ続けてきた人だ。その先生がオリジナルの教材を使っているという話を聞いて、一度見せてほしいとお願いした。
届いたものを開いて、最初に思ったのは「あ、こんなもんなのか」だった。
そこに並んでいたのは、過去問の寄せ集めだった。有名校の入試問題がずらりと並んでいる。詳細な解説があるわけでも、独自の図解があるわけでもない。市販の問題集と、見た目はほとんど変わらない。
だが、話を聞いていくうちに、自分の認識が完全に間違っていたことに気づいた。
5年から10年、かけてつくるもの
その先生は言った。「この教材を仕上げるまでに、5年から10年かかった」と。
最初、何を言っているのか意味が分からなかった。過去問を集めるだけなら、時間はかからない。データベースを使えば数時間の話だ。
違うのは、問題の配列だった。
どの問題を、どの順番で解かせるか。その設計に、10年という時間が費やされていた。
先生が説明してくれたのは、こういうことだ。問題の選択と配列を試し、実際に生徒に解かせてみる。ある問題でつまずく。そこに別の問題を一問差し込んでみる。今度は理解が進む。逆に、特定の問題が実は不要だったと分かることもある。何年もかけてその作業を繰り返し、問題の並びを少しずつ洗練させていく。
完成した教材は、解いていくだけで理解が深まっていく構造になっている。解説に頼らなくても、問題の順番そのものが次の問題への橋渡しになっている。
それを聞いた瞬間、背筋が伸びた。
問題集と教材は、別物だ
世の中に問題集は無数にある。難易度順に並んでいる。単元別に並んでいる。出題頻度順に並んでいる。だが、それらはすべて「問題の集積」であって、「指導のための配列」ではない。
問題集を作るのと、教材を設計するのは、まったく別の行為だ。
問題集の並び順は、問題の性質によって決まっている。教材の並び順は、子どもの理解の順序によって決まっている。この違いは、見た目には分からない。でも、実際に学ぶ子どもにとっては、天と地ほどの差がある。
問題Aを解いた状態で問題Bに向かうのと、問題Aを飛ばして問題Bに向かうのでは、同じ問題を前にしても、子どもの頭の中で起きることがまったく変わる。前の問題が、次の問題を解くための土台を作っているからだ。
その土台の積み方を設計するのが、指導者の本当の仕事だと僕は思っている。
「解説をしない」という選択
その先生の教材に解説がほとんどなかった理由が、話を聞いてようやく分かった。
解説が必要な状況というのは、問題の配列が間違っているサインでもある。
子どもが問題の前で止まる。解説が必要になる。だが、もし配列が正しく設計されていれば、その問題に至るまでに必要な概念はすでに前の問題で経験済みのはずだ。止まる必要がない。
解説を増やすことで問題の配列の失敗を補おうとする指導は、根本から順番が逆だ。解説が多い教材ほど、配列の設計が甘い可能性がある、と言ってもいい。
もちろん、言語化が必要な場面はある。でも理想は、解くという経験そのものが理解を生む状態だ。説明を聞いて分かるより、解いて分かる方が、記憶への定着も応用への転用も深い。
僕が授業でやっていること
この話を聞いてから、自分の授業設計を見直した。
毎回の授業で、どの問題をどの順番で出すかを、以前より意識して考えるようになった。生徒がつまずいた時、すぐに解説に入るのではなく、まず「この前に別の問題が必要だったのではないか」と考えるようになった。
配列が正しければ、つまずきは減る。どこかでつまずくということは、配列のどこかに穴があるということだ。
それはその生徒の問題ではなく、配列を設計した指導者の問題だ。
もちろん、10年かけた先生の域に僕はまだ届いていない。でも、その視点を持っているかどうかで、授業の質は確実に変わる。問題を解かせることと、問題を通じて理解を積み上げることは、同じではない。
過去問を「ただこなす」ことへの疑問
受験学年になると、過去問を大量にこなすことが美徳のように語られる場面がある。量を解いた子どもが偉いような雰囲気が、一部の塾文化には存在する。
だが、配列を無視して問題の量だけを増やしても、理解は積み上がらない。バラバラに解いた問題は、バラバラなまま頭の中に残る。
問題の取捨選択と配列が正しければ、少ない問題数でも理解は深まる。それが逆なら、問題をいくら積み上げても砂の城だ。
その先生が10年かけて作ったのは、問題そのものではない。問題を解く順序という、目に見えない構造だった。
教材の価値は、何が載っているかより、どう並んでいるかで決まる。