「どーせ無理」から「だったらこうしてみたら?」へ
2025/4/9
植松努さんのTEDトーク、見たことありますか?
僕はここ数年、何度も見返してきました。そのたびに、この人は本当にすごいな、と思います。
今回は、その動画を見て感じたこと、
そして、自分自身の経験と教育への想いを、つらつらと書いてみようと思います。
僕は自分の考えがなかった
中学生の頃、特に大きな悩みはなかった。目立ちすぎず、引っ込みすぎず、まわりとはそれなりにうまくやっていた。空気を読むのは得意だったし、「ちゃんとしてる子」でいるのは自分にとって自然なことだった。
「人とうまくやれる」ことは、当時の自分の自信のようなものだった。
けれど今振り返ると、それは“合わせる”ことに慣れすぎた結果だったのかもしれない。
社会に出て数年、会議で、商談で、何かを問われるたびに、僕はまずまわりの顔色を見ていた。
その場の空気を読み、「いま、この場で正しそうな答え」を選ぶことには慣れていた。でも、ある日ふと、強烈な違和感に襲われた。
「自分の考えって、どこにあるんだろう?」
成果は出していた。けれど、心はいつも他人事のように冷めていた。
そのうち、気持ちが仕事に追いつかなくなっていった。
「このまま続けていくのは無理だ」
そう思ったときには、もう心がすり減っていた。
決定的だったのは、人間関係だった。
少しパワハラ気質の上司に、毎日のように皆の前で怒鳴られる日々。
言い返せなかった。ただ、次は怒られないように立ち回る癖だけが上達していった。
動物のしつけのように、正しい反応を条件づけられている気がしていた。
それでも僕は、その環境で結果を出そうとし続けていた。
「ここで崩れたら、自分がダメな人間だと認めることになる」
そんな思いだけで自分を支えている感じだった。
けれど、あるときポキッと音がした気がした。
ベッドから起き上がれなくなった朝。その日から、僕は働くことができなくなった。
時間が止まったような日々の中で、ようやくわかった。
僕はこれまで一度も、「自分で自分の人生を考える練習」をしてこなかったんだと。
だから今、僕は自己理解や自己表現を教える仕事をしている。
かつての僕のように、“ちゃんとやれてる”けれど“自分の声がわからない”人たちに出会うから。
気を遣える人ほど、都合よく使われやすい。
空気を読むのがうまい人ほど、自分の意見を見失いやすい。
だからこそ僕は、伝える仕事をしている。
「あなたの中にも、ちゃんと“自分の声”はあるよ」と。
それともうひとつ──これは僕の価値観だけど、遠慮なく言わせてもらう。
周りなんて、正直どうでもいい。自分の人生に責任を持てるのは、自分だけだ。
相手がどれだけ社会的に偉かろうが、弱かろうが、結局のところ1対1の人間だ。
「まず自分を最優先に考える」ことから逃げるな。
そうでないと、選択が他人任せになり、失敗したときに“誰かのせい”にできる余白が生まれる。
それは、人生を本気で生きてる態度じゃない。
相手によって意見や態度を変えること自体は悪くない。
でも、それが“迎合”になってるなら、自分の輪郭はどんどん曖昧になっていく。
自分の人生を本気で生きたいなら、
「みんなが正しいと言うこと」や「最大公約数の安心感」に乗っかるな。
無難で中立な善人ぶった声ほど、人生の選択を鈍らせるものはない。
その声は、誰の人生も背負ってくれない。最後に責任を取るのは、いつだって自分自身だけだ。
生きやすい人を育てたい
子どもたちの自殺者数が過去最多を更新した。
その事実だけで、今の社会は“正しい姿”とは言えないと思っている。
そして、それを根本から変えられるのは、教育しかない。僕は本気でそう信じている。
テクノロジーはこれからも爆速で進化していくだろう。インフラが整い、インターネットが普及し、スマホが当たり前になったように、AIやメタバース、ブロックチェーンが僕たちの生活に入り込んでくる。
どんどん便利になる。進歩の速度も速くなる。
でも、人の本質は変わらない。社会のセンターピンは、どこまでいっても「人」だ。
だから僕は、教育をする。この社会の根っこであり、唯一変化をつくれる「人」を育てたいからだ。
教育という営みを、僕に教えてくれた恩師がいる。
その人は、僕にいつもこう言ってくれた。
教育、もっというと人間関係に大事なのは、信頼・尊敬・親しみだと。
それは今でも、僕の中で生き続けている。
授業の後、帰り道、夜ふとんに入るとき、いつも自分に問いかける。
「今日の自分は、相手を信頼できていたか?」
「心から尊敬できていたか?」
「親しみを持って接していたか?」
答えは毎回、完璧ではない。でも、それでいいとも思っている。
僕たちは、「完璧であること」を求めすぎて潰れている社会に生きている。
誰しも、どこかで「ちゃんとしなきゃ」と思い込んでいる。
だから僕は、“未完成な一人の人間”として人と向き合っていたい。
一緒に成長する。上も下もない。遠慮もしない。
大事なことはちゃんと伝えるし、「それ違う」と思ったら僕はぶつける。
そのかわり、相手からも「それ違うよ」と言ってほしい。
僕は、教育を“段階”として捉えている。
最初はティーチング。必要な知識を伝える。
次にコーチング。問いを返し、自分で考えさせる。
最後にエンパワーメント。もう、僕がいなくても動けるようにする。
そのプロセスで大切にしているのは、ただ一つ。
「失敗しても、自分の足で立てる人」を育てること。
植松努さんは「教育とは、死なない失敗を安全にさせる装置」だと言った。
箕輪厚介さんは「死ぬこと以外かすり傷」だと言った。
エジソンは「私は失敗してない、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」と言った。
僕もそう思う。何回転んだっていい。やり直せるなら、やり直せばいいだけだ。
そのためには、まず自分を知ること。
そして、その考えを言葉にできること。
それを誰かに伝えられること。
これが、生きていく上でのコアスキルだと僕は思っている。
僕が関わらないと決めている人
僕が植松努さんのTEDスピーチに出会ったのは、2年ほど前。
めちゃくちゃいいスピーチなので、是非見てほしいです。
「どーせ無理」という言葉が、どれだけ人の可能性を奪っているか。
「だったらこうしてみたら?」という言葉が、どれだけ人を前に進ませるか。
その一つひとつが、胸に突き刺さった。
僕は、あのスピーチに出てくる子どもたちの姿に、自分の関わる人たちを重ねていた。
夢を語ったときに笑われた人。「現実見ろ」と言われ、目の輝きを失った人。
「自分なんて」と言って、自分のことを語れなくなっていた人。
「どーせ無理」
この言葉は、恐ろしく簡単だ。たった5文字で、挑戦する理由も、考える努力も、すべて奪える。
けれど、「だったらこうしてみたら?」には、勇気と余白がある。
答えじゃなく、“問いを返す”やさしさがある。
僕が心がけているのも、これだと思う。
「無理」と言われたときに、「でも、こういう方法もあるよ」と返せるかどうか。
「自分なんて」と言う生徒に、「でも、それをどう変えていこうか」と一緒に考えられるか。
そうやって、“自分に問い返せる人間”を育てていくことこそが、教育者の仕事だと思う。
植松さんの言葉が、教育の現場にもっと届いてほしい。
「どーせ無理」が口癖の社会を、「だったらこうしてみたら?」が文化になる社会に変えたい。
良いスピーチだと思う一方で、同じくらい怒りが湧いた。
撫でてもらった頭は叩かれ、信じたものは否定され、「お前ならできるよ」と言ってくれた人の言葉が、「お前には無理」と簡単に塗りつぶされてしまう。
これは別に特別な話ではなく、僕も経験してきたし、周りでも何度も見てきた光景だ。
そんなふうに、他人の可能性を雑に踏みにじる人が、世の中には山ほどいる。
しかも、悪気がない。
「現実を見ろ」
「そんなのは才能がある人の話」
「お前のレベルで何を言ってるんだ」
どれも、子どもの目の光を消していく言葉だ。
でもその大人たちは、それがどれだけ残酷なことかすら気づいていない。
気づかないまま、「いい教育してるつもり」でいる。それが、いちばんたちが悪い。
自分の知っている範囲で世界が成り立っていると信じてしまう大人ほど、傲慢な存在はない。
可能性の話に対して、「いや、それ無理でしょ」と笑う。
「やったことがないからわかるわけない」と平気で言う。
「そんなの現実的じゃない」って口にすると、なぜか大人っぽい顔になる。
でも誰も責任なんか取らない。その言葉で夢をあきらめた人に、何が起きても。
怖いのは、自分もその一部になってしまうかもしれないことだ。
子どもと向き合っていると、自分の“わかってるつもり”が顔を出す日がある。
「それ、ちょっと無理だと思うな」って、口に出そうになる日がある。
そんなとき、自分に言い聞かせている。
「失敗すればいい。やってみて、うまくいかなくても、それは“失敗”じゃなくて“経験”だ」
「知らない世界なんて、まだまだたくさんある。自分の枠で、相手の未来を決めるな」
教育に関わって生きるということは、
常に「知らなさ」と「未熟さ」に正直でいることだと思う。
もしかすると、綺麗ごとに聞こえるかもしれない。
そう感じる人がいることも、理解している。
人はそう簡単には変わらない。それも、痛いほど知っているつもりだ。
だからこそ僕は、
・教育を「成果主義」や「正解探し」に閉じ込めようとする人
・本人の声より、“大人の常識”を優先する人
・「無理に決まってる」「現実見ろ」が口癖になっている人
・表面的には共感してるように見えて、本質的には変わろうとしない人
・教育を手段ではなく管理ツールとして扱う人
こういう人とは関わらないと決めている。
平行線を生き続けるほど、お互いに無意味な時間と人間関係はないから。
その分僕は、それ以外の人とちゃんと向き合いたい。
言葉を投げ合い、失敗を許し合い、成長し合って、生きていたい。
自分を知る力が、人生を変える
これまで受け持った人の中で、偏差値36からSFCに合格した事例がある。
最初に会ったときの印象は、「いたって普通」だった。
特別成績が良いわけでもなく、極端に反抗的なわけでもない。
ただ、はっきりしていたのは
考えることが、少し苦手な子だった。
見えているのは、せいぜい2日先の予定くらい。
目の前のことには素直に反応するけれど、抽象的な問いや「なんのために?」という視点には、ぽかんとすることが多かった。
でも、彼には一つ、とても大切な素質があった。
失敗を、素直に受け入れる力。
それは、思考力や表現力よりもずっと大事な伸びしろだった。
彼はあるプロジェクト活動に参加していた。
その取り組みをフックにして、僕は少しずつ抽象の世界に彼を連れていくことにした。
「このプロジェクトの目的って、なんだと思う?」
「やってみて、どう思った?反省は何?」
「このプロジェクトにはどんな価値があると思う?」
最初は、全然答えられなかった。
でも、具体と抽象を往復しながら、「言葉にする」ことを一緒に繰り返していった。
受験に対しても同じだった。
「なぜSFCなのか」
「何を学びたくて、何を変えたいのか」
彼の中に“なんとなく”はたくさんあった。
でも、それを“言葉”にするのが苦手だった。
だから僕は、正解を与えないようにした。
僕自身が「こうだろうな」と思っていることも、あえて言わない。
本人の言葉で、答えを見つけてもらうために。
人によって、思考の重心は違う。
具体に強い人、抽象に強い人。
そのバランスの中で、教育のあり方も変わるべきだと思っている。
いわゆる「勉強が苦手な子」は、圧倒的に“具体の思考”に偏っていることが多い。
小テストの点数、目先の課題、出された問いに答えること。
全部、目の前の「タスク処理」になりやすい。
一方で、「成績の良い子」は、全体を俯瞰しながら逆算していることが多い。
勉強の構造理解も、時間の使い方も、戦略的に組み立てている。
でも、本当の学力は、どちらか一方では身につかない。
抽象と具体の往復があって初めて、人は「考える力」を持てる。
そしてその往復が、自分を知り、自分の人生を自分で選ぶ力になる。
・・・そんな彼が、「SFCに行きたい」と言い出したのは、高3の6月だった。
正直、唐突だった。でも僕は、「いいじゃん、面白いし」と返した。
心の底では、“おもしろがる感覚”を捨てていないことに安心していた。
でも、周りの大人たちの反応は、まるで違った。
お母さんは「できれば就職してほしい」と言っていた。
だからこのSFC受験は、一発勝負だった。落ちたら、もう次はない。
本人も、その重さを感じていたはずだ。
学校の進路会議でも、彼の受験は「記念受験」扱いだった。
「受けて満足するだろう」
「どうせ無理だ」
「それより他の模試や授業に集中すべき」
悔しかったし腹立たしかった。
教育の現場で、それを言う側にいるのが教師だなんて、なおさら。
だから、合格してほしいと思った。
でも、それ以上に願っていたのはこの狭い世界から抜け出す力と自信を、養ってほしいということだった。
合否よりも、もっと大きな「自分で選んで生きていく力」。
「無理かもしれない」と思いながらも、やってみる勇気。
それを、たとえ一度きりでも、確かに掴んでほしかった。
教養があれば、いじめは起きない
これは僕がずっと考えている仮説だ。
あるいは、願いに近いものかもしれない。
教養がある人間の間では、いじめは起きない。
なぜなら、教養とは「他者を想像する力」だと思っているからだ。
相手の立場になって考える、背景に思いを馳せる、無意識の思い込みを疑う…
そういった力があれば、わざわざ誰かを傷つけようとは思わないはずだ。
僕が関わってきた人の中でも、いじめや人間関係のトラブルに巻き込まれた人は何人もいる。
そのうちの多くは、自らコミュニティを離れる選択をした。
価値観が合わなくなったから。
その場所にいることが、自分を削っていく感覚だったから。
そして何より、そこでは「自分をちゃんと表現できなかった」から。
環境を変えるのは、逃げじゃない。
「ここでは自分を大切にできない」と気づき、動くことができた。
それは大きな成長だと思う。
一方で、コミュニティとは無関係な場面で、突然いじめに遭う子もいる。
そのとき、僕ができることは限られている。
現実的な対処として、「距離を取ろう」「無視しよう」程度しか言えないもどかしい場面もある。
そういうケースでは、本人がとても内向的で、自分の気持ちをうまく言葉にできないことが多い。
でも僕は、それを「おとなしい子」「無口な子」とは思っていない。
語る練習をしてこなかっただけだ。そしてそれは、環境が与える沈黙であることも少なくない。
だからこそ、僕は「自己理解」と「自己表現」の指導に力を入れている。
言葉を持つことは、居場所を持つこと。
自分の感情を整理できること。それを他人に伝えられること。
その力があれば、人間関係のトラブルを未然に防ぐことができる。
あるいは、巻き込まれたときにも、自分を見失わずにすむ。
賢く、豊かに生きるとは、他者といい関係を築ける力を持つこと。
偏差値や学歴の話ではない。
「信頼・尊敬・親しみ」の土台を、意識して築こうとする姿勢。
相手の目線で考え、自分の言葉で返すことができる力。
そういう人が増えれば、いじめはきっと減る。
それが、僕が教育を通じて実現したい未来の一つだ。
最近、政府が「いじめ問題に本気で取り組む」として、巨額の予算を組んだ。
でも、僕はそこに大きな期待はしていない。
なぜなら、スクールカウンセラー制度などの支援がすでに存在しているにもかかわらず、
2024年、小中高生の自殺者数は過去最多の529人という現実があるからだ。
いじめは、人と人との関係性の中で起こる。
外からの介入が届かない「距離」が、そこにはある。
結局、変わらなければいけないのは中の人だ。
どんな制度があっても、本人たちが変わらなければ、意味がない。
もちろん、いじめを完全になくすことは難しい。
僕たちは“生き物”であり、集団の中で序列をつけたがる本能を持っている。
だから、いじめはある意味「本能の発露」なのかもしれない。
でも、
「この世界がすべてじゃない」と知っていたら。
「この小さな場所での上下が、人生のすべてじゃない」とわかっていたら。
人は、そこから離れることができる。
傷つける側になることも、傷つけられたまま耐えることも、選ばずに済む。
それが、僕の信じる「教養」だ。
狭い世界でつけられた優劣を、絶対のものと信じない力。
“井の中の蛙”を抜け出す想像力。
そのために必要な、思考力、言葉、自分軸。
それらを持った人間は、自分を傷つけてくる環境から距離を取ることができる。
同時に、誰かを傷つけそうな自分にも気づくことができる。
本能よりも理性を。自分よりも、全体を。
その視点を持てたとき、いじめという行為がいかに非生産的で、意味のないものかが見えてくる。
諦め方を知らない子どもたちと大人の責任
植松さんの話の中にこんな節がある。とても共感した。
子どもは、生まれたとき「諦め方」を知らない。
ボタンがあれば押したがるし、スイッチがあれば回したがる。
「なんだろう?」「やってみたい」という気持ちのかたまりだ。
でも──
大人になるにつれて、僕らはそれを少しずつ失っていく。
「どうせ無理」
「現実を見ろ」
「やっても意味ない」
そんな言葉を、繰り返し繰り返し刷り込まれるうちに、
僕たちは“挑戦しない理由”をうまくつくれるようになっていく。
僕自身、学生時代は「どーせ無理」をまとって生きていた。
自分でも気づかないうちに、挑戦しない言い訳ばかりを並べていた。
ばかばかしい。意味がない。目立ちたくない。やってどうなるの?恥ずかしい。自分には無理だ。
そうやって、心の中で何度も自分にブレーキをかけていた。
でも、大人になってあるとき気づいた。
「自分って、自分のことをめちゃくちゃ過小評価してるな」と。
自分の可能性を信じることに、異常なくらい臆病だった。
だから、意識して逆のことを始めた。
“やってみないとわからない”を、実験みたいに繰り返した。
・未経験の業界に飛び込む
・新規事業の立ち上げに関わる
・格闘技を始める
・面白そうなものは、とりあえず買ってみる
・気になったら、一回やってみる
すると、不思議と小さな自信が積み上がっていった。
植松努さんの言葉に、こんなものがある。
「やったことないことやってみたら、ちっこい自信が生まれる」
「ただいま成長中、って言っていい」
「だったらこうしてみたら?で、夢は叶う」
僕はこの言葉が、ゆるさも含めて好きだ。
「どーせ無理」と子どもに言う大人の正体は自分自身が挑戦できなかった過去に、蓋をしているだけなのかもしれない。
だからこそ、僕は思う。
挑戦を止めたくなる気持ちは、わかる。
でも、止める理由を他人に押しつけるのは、もう終わりにしたい。
「だったらこうしてみたら?」そう言ってあげられる大人が、
一人でも多くなれば、きっと“諦め方を知らなかった頃の自分”を取り戻せる。
そして、関わってくれる人にもその背中を見せられる。
教育は社会を照らす。はず。
教育とは、ただ知識を与える営みではない。進学実績や偏差値の数値を競う場でもない。
僕にとっての教育は「人が、自分の人生を生きやすくする力」を育むこと。
そしてその力は、やがて他者とフェアに関わりながら、社会そのものを形づくっていく力になる。
「自分を知る」ことができた人は、次に「社会を知る」ことに目を向ける。
そしてその視点が育つと、もっと広い「世界」に目を向け、自分事として捉えられるようになっていく。
その一段一段を、自分の言葉で登っていく。見える範囲が、ぐんと広がっていく。
その姿を見ていると、僕は「教育ってやっぱり希望だな」と、心から思える。
でもここまで書いておいてなんだけど実際の教育現場って、そんなにドラマチックじゃない。
自分自身を振り返っても思う。
環境を変えて、新しいことに飛び込んで、「さあ、変わるぞ!」と意気込んでも、なかなか思うように変われない。
脳ってやつは、すぐにこう言う。
「いやいや、変化とか危険だから」 「そのままでいこうよ、落ち着こうよ」
いわゆる正常性バイアス。変化に対する本能的な拒否反応。
だから、どれだけ勇気を出して動いても、人は簡単には変われない。
そして、他人を変えようなんて、もっと大変。
自分ですら変わるのに時間がかかるのに、
他人の変化なんて、見えづらいし、気づきにくいし、
そもそも「変わる気がない」ってパターンも普通にある。
生徒に「ちょっとだけでも言葉にしてみよう」と言っても、
「うーん、別にないっす」
みたいな返答を何度食らったことか。
それでも、対話をやめちゃいけないと思う。
教育って、目に見える成果は遅い。でも、小さな変化は確かに起きている。
そんな微細な変化を見つけたとき、「ああ、尊い」と思う。
期待しすぎず、でも期待を捨てずに。変わることを信じながら、向かい合い続けたいと思う。
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