静けさは、問いの扉をひらく~京都の禅寺と小論文のまなび~

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2025/5/26

今回は、「静けさ」と「問い」の関係についてお話ししたいと思います。

いかがでしょう?皆さんは静かな時間を持てていますか?

スマホ、アプリからの通知、SNS、参考書・・・。日常はたくさんの「音」で満ちていますよね。

正伝寺の方丈から比叡山と対峙する

洛北西賀茂の地に正伝寺という臨済宗南禅寺派の寺院があります。

頭が煮詰まる、静けさを感じたい、そんな時はこの寺の方丈に腰を下ろして比叡山と向き合いつつ自問していることが多いようです。


昔日のこととなりますが、デビッド・ボウイが涙した静寂という言葉に誘われて(いざなわれて)正伝寺の門をくぐった際、静謐な静寂を感じ、これまでのあるいはこれからの私に対して既に問いかけしている点に気が付きました。


相手に問う、言葉を発する、そうした積極性に基づいたと勘違いしているような行動は、実のところ言いっぱなしで謙虚に自らに問うことを忘れています。


静寂の中で、眼前の比叡山を見つめる、自然と耳に入る鳥の声や風が木々の間をすり抜ける音、静けさは自らへの問いの機会を思いがけず与えてくれます。

小論文のまなびは「自分の問い」から始まる

静けさの中での自問と文章を書くということは、実のところ通ずる点があります。

小論文では、知識や構成力と同じくらい大切なものがあります。

それは、「自分は何を疑問に思い、何を深めたいのか」という「問い」を持つことです。

けれども、日々の忙しさや情報の多さの中では、自分の中の小さな疑問に気づくのは難しいもの。

だからこそ、あえて立ち止まり、静かな時間を持つことが大切だと思うのです。

「これって本当に正しいのかな?」

「なんでみんな当たり前のように言っているんだろう?」

「自分はどう感じているんだろう?」

そうした問いは、きっと静けさの中から生まれてきます。

問いを育てるということ

小論文は、知識を駆使して正解を追い求める試験ではありません。

「あなたがどう感じ、どう考えたか」、それを言葉にしていく試験ともいえます。


問いは、誰かから与えられるものでもありません。

自身の中から静かに生まれてくるものです。


禅寺のことで始めたこの記事で線香臭いとお感じになるかもしれませんが、試しに「耳を澄ます時間」を持ってみてください。たとえば朝の10分だけでもいい。

静かな場所で、静かな心で、自分に問いかけてみてください。

「私は、なぜこれを学ぼうとしているんだろう?」

もちろん容易に答えは得られませんが、何かが始まる予感があります。


問いを持つことは、学びの原点です。

そして、それはきっと人生にとっても、大切な習慣になるはずです。


静けさは、問いの扉をひらく~京都の禅寺と小論文のまなび~、いかがだったでしょうか。

受験という意識だけではなく、未来への指標という点からも、静けさの中に本当の「自らへの問い」が眠っているかもしれません。

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