【受験指導の真実】生徒の“全人格”を愛せたか——家庭教師が毎年、試験翌朝に考えること
昨日、7名の生徒が受験を終えました。
夜には「終わりました!」と連絡をくれる子もいて、本当にありがたいです。
その一つひとつの通知が、こちらの胸をじんわり温めてくれました。
そして今朝。
ふと、いつもの問いが心に浮かびました。
——私は、生徒の“全人格”を愛せただろうか。
人見読解塾には、本当にいろんな生徒がやってきます。
のんびりしている子もいれば、せっかちすぎる子もいる。
やる気が出ない日が続く子もいるし、逆に、焦りすぎて空回りしてしまう子もいる。
ときには言って聞かせなければいけない場面もある。
ときには、歯の矯正みたいに、考え方や勉強の癖を少しだけ“整える”必要もある。
その過程で、厳しいことを言う日もある。
優しく寄り添うだけでは届かない子もいる。
それでも——。
どんな生徒にも、ひとつの「物語」がある。
目に見える姿だけで判断してはいけない裏側の、静かな努力や、生きづらさや、誇りや、傷つきやすさがある。
それをまるごと受けとめる覚悟が、指導者には必要なのだと、年々強く思うようになりました。
家庭教師とは、生徒と二人で“時間を彫刻する”仕事だと思っています。
1回1回の授業は、たいてい不器用で、なかなか思い通りにいかなくて、綺麗な形にもならない。
けれど、彫刻のように、少しずつ削って、磨いて、また削って、また磨いて……。
気がつけば半年、1年、2年という時間が積み重なり、ようやく一つの“作品”が形になる。
その作品は、ときにいびつで、粗くて、均整が取れていないこともある。
でも、それでいい。
むしろそれがいい。
大事なのは、手間と愛情がかけられているかどうか。
“正しくてきれいな仕上がり”よりも、
“その子と一緒に作った、世界に一つだけの時間の跡”こそが尊い。
受験が終わるたびに、私はそう思い返します。
ちゃんと、その子の人生の一部分を、一緒に歩けたのだろうか。
その子の全人格に、敬意と愛情を注げただろうか。
それとも、ただ「成績」という形だけ追ってしまわなかったか。
教育は、技術よりも態度のほうが重い。
最近は、そんなふうに考えるようになりました。
昨日受験したみんな、本当におつかれさま。
君たちと過ごした時間は、私にとっても確かな“作品”です。
ありがとう。