関係性を逆転させること――「自分だけの答え」まで灯りを照らす仕事としての国語講師

「国語の授業なんて、早く終わればいいのに――」
そうこぼしながら、毎週嫌々塾へ通っていた一人の少年がいました。(やや物語の始まり風な出だしは結構好きな島田です✌)
海外生活の忙しさ、慣れない日本語の壁。
彼にとって「書くこと」は、自分を縛り付ける苦痛な作業でしかなかったのかもしれません。
ところが、ある日のオンライン授業が終わった直後。彼は弾けるような笑顔で部屋を飛び出し、お母様にこう叫んだそうです。「あー、楽しかった!」
その日の授業は、私が、彼の書いた作文の講評をして、リライトを指示しただけでした。
ただ、彼の思考の「半歩先」の道を灯台の明かりで照らしてみたのです。
帰国生入試の過去問を眺めていると、ある共通の「型」が見えてきます。
「決断力」と「感情」
「おかれた環境」と「創造力」
「奇跡」と「日常」
一見、関連がないように見える二つのキーワードを提示し、その関係性について述べなさいという問い。
これは、日本の一般的な入試で見られる「自分の意見を述べなさい」という直線的な問いとは、明らかに一線を画しています。
なぜ、こうした学校はあえて「二つの言葉」をぶつけてくるのか。
そこには、異文化の狭間で生きてきた生徒たちにこそ求められる、「知性の柔軟性」を測る意図が隠されていると私には思われます。
多くの生徒は、こうした問いに対し、まず「正論」を探そうとします。
しかし、私が授業で大切にしているのは、生徒が紡ぎ出した言葉の「半歩先」に、新しい問いを置くことです。
その生徒様との対話で、こんな場面がありました。
私は彼に「弱さ」と「強さ」の関係について書きなさいと言う作文課題を出していたのですが、彼は、提示された二つの概念について
「一方がなければ、もう一方を定義することもできない。これらはセットで存在しているんだ」
という、非常に鋭い仮説を立ててくれました。
中学生が自らの力で辿り着いた、相対化という名の知性。
私はその芽を、決して「よく書けたね」という定型句で終わらせたくはありませんでした。
「君が今海外で感じている経験でそのセットは存在しているかな?」
「セットで存在することはよいことかな?」
「片方の劣位にあるものはポジティブにとらえたことはない?」
画面越しの彼の表情が変わりました。
それまで頭の中だけでこねくり回していた「言葉」が、彼自身の「経験」という血肉を通った瞬間の、あの独特な熱量。
沈黙のあと、彼はポツリポツリと、でも確実に自分の言葉で語り始めました。
自分の中にある「不自由さ」が、実は新しい「自由」を見つけるための種になっていたこと。
弱さを認めることが、本当の意味での強さの始まりであること。
「書かされる苦痛」が「自分を表現する喜び」に変わった瞬間。
新しい表現の萌芽には、もはや誰の真似でもない、彼にしか書けない力強いメッセージが宿っていました。
いつも授業の前日、「遅れて申し訳ありません」と添えて届く彼からのメッセージ。
そこには、ギリギリまで粘って言葉を絞り出した、孤独な格闘の跡が刻まれています。
新しい世界へ踏み出そうとする熱量を、私は誰よりも大切に受け止めたいと思うのです。
入試の合格は、あくまで通過点に過ぎません。
二つの言葉を繋ぎ、自分だけのロジックを組み立てるこのプロセスで鍛えられるのは、一生モノの『思考の筋力』です。
言葉を研ぎ澄ませる冒険を通じて、世界をより深く、より多角的に捉えられるようになってほしい。
今日も画面の向こう側で、新しい問いを携えて、生徒たちの「半歩先」を照らし続けます。
私があなたの灯りになれますように✌