「途中式を全部書け」は、誰のための指示だったのか
僕は中学受験の経験がない。
これは講師としてのコンプレックスでもあったが、今となっては逆に財産だったと思っている。中学受験を経験していないということは、中学受験の「常識」を疑わずに内面化していないということだからだ。
僕が本格的に勉強と向き合ったのは中学・高校からで、そのとき学校の先生や塾の先生から繰り返し言われたのが「数学は途中式を全部書け」という指示だった。
理由は明快だった。どこで間違えたかがわかる。部分点が取れる。思考が整理される。どれも正論だ。
だから僕も最初、生徒たちに同じことを言っていた。
途中式を書け。式を省略するな。丁寧に書け。
成績上位層の「雑さ」が教えてくれたこと
ところが指導を続けるうちに、奇妙なことに気づいた。
算数の成績が飛び抜けていい生徒ほど、途中式が雑なのだ。殴り書きどころか、ほとんど書いていない子もいる。僕の肌感覚では、上位1割の生徒のうち、丁寧に途中式を書く子は10%にも満たない。
最初は「この子たちは地頭がいいから書かなくてもできるんだ」と片付けようとした。しかしそれは思考停止だ。
だから聞いてみた。書かないとき、頭の中で何をしているのか、と。
返ってきた答えは概ね共通していた。
「ここは暗算でわかるから」「この部分は逆算すれば出るから」
彼らは式を「省略」しているのではなく、処理する必要がないと判断したステップを「飛ばして」いるのだ。
中学受験の算数は、高校数学のように公式を変形して解くタイプの問題ばかりではない。順を追って一つひとつ数値を確定させていく、いわば「工程の連鎖」で解く問題が多い。その工程のうち、頭の中で即座に処理できるものはわざわざ紙に書く必要がない。書くという行為のコストが、思考の流れを阻害することすらある。
「途中式を全部書け」という指示は、もしかすると生徒のためではなく、採点者や指導者が「理解を確認しやすくする」ための指示だったのではないか。
そう気づいたとき、自分の声かけを根本から変えることにした。
図や表を書くかどうかの、本当の判断基準
ただし、誤解しないでほしい。
僕は「途中式も図も表も書かなくていい」と言いたいわけではない。
僕が今採用している基準はシンプルだ。
素早く、正確に解けているなら何も言わない。
正答率が低い、あるいは解けないなら、図や表や式を書くように促す。
これだけだ。
ただ、ここに一つ重要な補足がある。
問題は単体で存在するのではなく、必ず「基本問題」と「応用問題」がセットになっている。そして応用問題を解くために図や表が必要な問題は、基本問題の段階から図や表を書く練習をさせる。たとえその基本問題が書かなくても解けるレベルであっても、だ。
逆に、応用問題でも図や表が不要なタイプであれば、基本問題では暗算や省略を許容する。
つまり判断の起点は、常に応用問題にある。
「この単元の応用問題を解くとき、何が必要か」を先に見極め、そこから基本問題の学習方法を逆算する。これが僕の設計の順序だ。
最初は講師が判断し、最後は生徒が判断する
「図や表が必要かどうか」を最初から生徒に判断させるのは無理だ。
だから最初は僕が判断して伝える。この問題はこのやり方で解け、と。
しかし指導のゴールはそこではない。
徐々に生徒自身が「この問題は図が必要だ」「この問題は暗算で十分だ」と判断できるようになることを目指す。問題を見た瞬間に、どの工程を書き出してどの工程を頭の中で処理するかの設計図が自動で描けるようになること。それが算数における「自立」だと思っている。
僕が描く指導の理想形は、かなり極端だ。
講師が何も教えることがない状態。ただ問題を渡して、丸をつけていくだけ。
それが実現できたとき、講師の仕事は完了だ。
生徒が自分で問題の性質を読み、解法を選び、必要な道具を判断し、答えを出す。そのサイクルが自走し始めたとき、偏差値というのは静かに、しかし確実に動き始める。
「正しそうな指示」を疑うことが、最初の一手
途中式を全部書け。
これは間違いではない。ただ、すべての生徒に、すべての問題で適用すべき万能の指示でもない。
指示が正しいかどうかよりも、「その指示が今のこの生徒に、今のこの問題に対して有効か」を考えること。それが指導の本質だと、上位層の生徒たちの「雑な」ノートが教えてくれた。
丁寧なノートを褒め続ける指導者は、実は自分が採点しやすい生徒を育てているだけかもしれない。
少し冷たい言い方をするなら、綺麗な途中式は、書いた生徒ではなく、見る側の大人を安心させるためのものだ。
その安心を、合格と混同しないでほしい。
個別に学習設計を組み直したい方は、マナリンクのプロフィールページからご相談ください。どの問題で図が要るか、どこから暗算でいいか、そういう話を一緒に整理するところから始めます。