2026共通テスト第一問問4について~情報処理だけでは解けない問題について~
みなさんこんにちは。マナリンクの島田です。
受験生のみなさん、先日行われた共通テストお疲れさまでした(^^♪
自己採点がよかった人もそうでなかった人も、次の二次試験や、私大の試験など、目の前にあることにぜひ集中して、へんに後戻りせず、あと少しの受験生活をやり切りましょう!
点数は点数として、割り切ってしまえばよいのです。
まだまだできること、やらねばならないことがあるのですからそれに邁進するのみです!
最後の最後までみなさんの受験が後悔ないものになることを祈っております。
さて、来年、再来年共通テストを受験するみなさんは、ぜひ時間がある時に共通テストを解いてみてください。特に現代文は今の自分の実力を知る意味でも格好の教材です。学年関係なく、今の自分の現代文の力を試してみてくださいね。
ところで、話は変わります。
評論の問題に次のような珍しい問題が出ました。抜粋して載せてみます。
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問4 傍線部C「冒頭からこれまでの記述は幼少期の私的な記憶の追想と、現在の制作についての(バタイユの影響を多分に含んだ)個人的な解釈にすぎない。」とあるが、筆者はなぜこのように述べるのか。その説明として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 言語では把握不可能な幼少期の体験の記憶を、素材の変容を味わう制作過程でのこれまでの体験と比較し相対化することで、他者と共有できないこれら複数の感覚を芸術的体験の多様性に関わるものとして強調しようとしているため。
② 見慣れた景色がわかりえないものに変容するという幼少期の記憶を、制作に向かう「わたし」の体験と重ね、それが芸術の根源にもつながる問題であると述べることで、私的な体験を一般に通じるものとして提起しようとしているため。
③ 他者と共有できない「美しさ」の存在を、幼少期の体験や作品制作に関わる個人的な事例を具体的に示すことで、芸術の根源にも通じる抽象的で他者と共有困難な美的概念について誰にでもわかるものとして提示しようとしているため。
④ 幼少期の美しい風景との出会いが、現在の制作過程においても繰り返し起きていることを述べながらも、これらの体験が個人的な解釈にすぎないと自覚することで、芸術を主観的な価値を持つものとして説明しようとしているため。
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この問題の何が面白いのかというと、傍線部自体の内容説明の問題ではない、ということです。「傍線部はどういうことか、説明しなさい」というタイプの問題ではなく、「この傍線部は、なんのために書かれていますか?」という叙述の問題であるという点がこの問題の面白いところだと思います。
さて、みなさんはこの問題の意図がわかりますか?
この問題をつくった制作者の意図を把握することができますか?
それは次のように言い換えることができます。
筆者が「私はきわめて私的な経験や個人的な体験を書いていますけど、、、」とわざわざ書いている理由をわかりますか? という問題です。
つまり、この文章を書くことで筆者は「言外に」どのようなことを言おうとしているか、もしくはどのような態度を示そうとしているか、をこの問題は問うています。
よいですか? 「言外に」です。
つまり、この文章の中にあらわれた筆者の主張の説明ではなく、この文章をいままさに書いている筆者の心情(態度)を理解できますか? という問題といってもよいものなのです。
ちょっと別の例を挙げて想像してみると、
人は「これはあくまで私の考えですけどね」っていうときがありますよね。
それと同じような事態がこの文章で起きているわけです。
人は色々なことを説明したり、相手を諭そうとします。
学校の先生も、「いままでいろいろなことをみなさんに説教臭くいってきたけど、これはあくまでも先生個人の考えですからね」といったりしますよね。
そのときって、どうして先生はそんなこと(個人の意見ですけどね的発言)をわざわざいうのでしょう。
可能性はいくつか考えられます。
①あくまで自分の意見なので、それでうまくいくかどうかは保証しないよ的な責任逃れ
②本当は万人に当てはまる重要なことを伝えようとしているが、自分の意見だとわざわざ言うことで、相手に押し付けないような叙述を心がけている優しさの表れ
ほかにも、ほかの人とは自分が違うというややマウント表現であったり、孤高の印象をつけるなどのシニカルな態度も上げられるかもしれません。
みなさんは、日頃、文章の中から書いてあることに根拠を見つけて、それをもとに情報を整理し、正答の選択肢を選ぶでしょう。それはもちろん大事です。それによって消去法は格段にやりやすくなるのですから。
ですが、それだけでこの問題は解けるでしょうか。
この問題の場合、<美は主観的なものではない不思議な根源的感性>があることを述べている個所があるので、④は不正解にできます。また①の「相対化」という表現も本文となじみのないものですし、<むしろ美は相対化しづらいもの=個人の心に直接、絶対的なものとして感動を与えるもの>という表現も見て取れるので、①も不正解にできるでしょう。
では②③は? どうやって本文から情報の取捨選択、情報の正誤を決めるのでしょうか。
わたしには、この後の本文にこういう表現があるから、この後の構成を考えるとこっちだ、という説明があった「としても」、それは後付けにすぎない気がします。
私が言いたいのは、本文の情報整理だけでは正答を導き出せない、表現を書く筆者の態度を想像できるかどうか、もしくは、日ごろこういう言葉を用いるときの事実確認的な要素ではなく、行為遂行的(パフォーマティブ)なセンスを持っているかどうかの方が重要である問題もあるということです。
ここでは、「自分の個人的な経験に過ぎないかもしれないけど」とわざわざ前置きを置くことで、「でも実際にはみんなに通じることだと思うのです」ということを押し付けない形で優しく誘導する筆者の丁寧な叙述の態度を見て取るべきです。
この筆者は、とてもやわらかく叙情的に文章を書く素質を持ちながら、バタイユや身体、他者、主体の変容、外部、といった思想的な言語にも造詣が深い優秀な人物です。
知的で思想のジャーゴンに精通しているにもかかわらず、読者に難解な語彙だけを押し付けない作者が、わざわざやさしく「個人的な経験ではあるのですけども、一般的にみなさんにも通じるものだと感じてほしいんですよ」と優しく諭している様子を想像できますか? わたしにはありありと想像できます。
選択肢に戻ると、よって、他者と共有困難な美的概念であるはずがないのです。筆者はみんなにもわかってほしいと思っているのですから。ほかの箇所には、<美的概念は客観的に定義できない>などの表現があるので、③のこの部分は情報の取捨選択では〇になってしまいます。でもここで筆者の態度は、そういう本文の情報の取捨選択を超えて、「みんなも持ち得ている一般的なものだと私は思うから、いったん私個人の経験かもしれないけど、伝わってほしいなぁ」という気持ちを言外に感じる必要があります。だから答えは②です。
わたしは、情報の取捨選択、本文の構造的読解、国語は情報処理だ、という国語の解法だけでは、国語は「すべては」解けないと思っています。
この問題もその一例を示しているように私には思われます。