積極的不登校のすすめ―或る人生の落伍者からのアドバイス
2022/10/9
不登校はいけないことなのか?
これまで不登校の概念には、ネガティブなイメージが付き纏っていた。友だちがいない、勉強についていけない、社会不適合などである。しかしながら、これは何も本人にのみ原因があるわけではなく、環境要因に大きく作用されることも広く理解され始めている。「いじめられたら、逃げてもいい」といった承認の言葉が人口に膾炙するようになったのである。
しかしながら、本人に責任がないからといって、本人が自責の念を覚えないとは限らない。我々は良かれ悪しかれ、「学校に行くのは当然」という観念を共有しているからである。「逃げてもいい」という承認は、一時的に避難してもよいということであって、その言葉には学校生活のリトライが前提されている。それゆえ、そもそも一人で居るのが好きで、クラスの連中や先公どもと関わりたくないと考える人には、「高校」なるものは至極厄介な存在となる。
学校は社会性を学ぶ場であるというガセネタ
このように言うと、「学校に通って集団生活に適応しなければならない」というご意見が飛んできそうであるが、これは全くのフィクションである。少しでも考えてみれば分かる。男女比率がほぼ1対1で、全員が同年齢の社会集団が学校をおいて他にあるだろうか?一般的に企業に就職すれば、男女比率もまちまちで、年齢も幅広いグループのなかで仕事をするのであるし、そこには多様な顧客もいる。学校のクラスのような、奇妙な男女比率と年齢の等質性のなかで育まれる社会性とは、「他者の視線の過剰意識」と「安易な同調と熱狂」にすぎない、それは最悪の場合いじめを引き起こす(あるいは青春というその場限りで気味の悪い狂熱が流行るだけである)。担任が一人いたところで、この力学には逆らいようがない。老人の知恵を欠いた、若者だけの集団は危険なのである(最近は老人すら尻の青い人が多いが)。
このように考えてみると、社会性を身につけるには、地域のスポーツクラブなり、自治体のワークショップなり、アルバイトなりをした方が、よほど健全であることが分かる。そこにはおそらく暇を持て余した老人がたくさんいるだろう。そういった人たちと話をしてみればよい。実のところ、我々に本当に必要なコミュニケーション能力は、異質な他者と和解することなのである。学校のクラスでのコミュニケーションの大半は、しょうもない駄弁りである。
学校の意義を再考する
そうであるのに何故、同年齢の者たちが集められるのか、それは「教育しやすい」という教育者側の都合でしかない。学校は社会性を学ぶ場というフェイクは、ご都合主義の屁理屈なのである。無論、明治大正昭和のテクノロジーでは、そのような仕方でしか教育できなかったわけであるが、もはや令和となって事情は変わっている。IT技術によって、家庭にいながらにして安価な高等教育を受けることが可能になっている。YouTubeであっても上手く使えば、質の高い勉強が可能である。
こういった状況であるから、若者たちのバカ騒ぎに嫌気のさした青少年は通信制高校という選択をとるわけである(N高校・S高校など)。いや、それすらもまどろっこしければ、高卒認定試験を受けるのであろう。最も願わしいのは、大学受験から高卒要件が外れることであろう。高校を卒業するのがそんなに素晴らしいことなのだろうか。
消極的不登校から積極的不登校へ
今学校に行くことができずにいて、自分を責めてしまっている人に聞いていただきたい。
・そもそも学校は「行かなければならない」のだろうか?
・学校に行くとは一体どういうことなのだろうか?
一つの考え方ではあるが、消極的不登校(学校に行けない)のまま悩み続けるよりも、決然と積極的不登校(学校に行かない)に切り替えるという手段もある。勇気のいることであるが、一つの方法ではあるし、テクノロジーが支えてもくれる。
①通信制高校なり高卒認定試験なりを利用して、大学受験資格を得る。
②何でもよいので地域のコミュニティに突入して、老人たちの話を聞く(質問をしてみる)。
「学校はどうした?」と問われれば、決然として「しょうもないので行きません」と言えばよい。マイノリティーであることは(過剰にそれに依拠してはならないが)ある種の誇りである。
おわりに―私の学校観
これは個人的見解であるが、特に男女共学の学校は「しょうもない」。私は地元の公立中学に通っていたが、そこが気味が悪すぎて、高校は私立の男子校を選んだ。それこそ同質的ではないかと言われそうだが、「他者の視線の過剰意識」という観点から言えば、共学よりも男子校女子校に軍配が上がる。
中学生の時、本当に気持ち悪かったのは、「誰それが某に告白した」やら「誰それと誰それとが付き合っている、別れた」などと延々とひそひそ言い合っていることであった。今思えば、頭の悪い人はゴシップに没頭するということにすぎないのであるが。
もう一つは、スクールカースト的発想である。これが何故生じるか、それは容姿や能力以外の要素が同質だからである。比較しやすいのである。実際、後期高齢者の女性と幼い女児とを比較することはあまりないだろう。
最後は教師である。教師は構造上スクールカーストの上位者に媚び諂うことになる。本当に素晴らしい教師でなければ、クラスで目立たない人の悩みには気が付かないのである。
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