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幸田オンライン家庭教師

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自己紹介

みなさん、こんにちは。京都大学でオワコンと言われて久しい哲学を研究している、採算度外視の幸田です。 以下、自己紹介ということで、①大まかな指導方針、②生徒さんへのメッセージ、③事務的なご連絡、④だらっとした自分語りを書いています。必要に応じてお読みいただければ幸いです。 ① 大まかな指導方針―外国語(英語)学習を根幹とした基礎学力の養成 ◆ 外国語学習の必要性―思考としての言葉 教科書のない教科はありません。文字を使いこなすということ(言語能力)が全ての教科の根底にあります。たしかに日本語を母語とする我々は日本語を流暢に運用することができます。しかし、この「流暢さ」が落とし穴で、母語を用いるときに我々はその流暢さの裏に隠れた「思考の誤り」に気づきにくいのです。この流暢さを強制的に排除するのが外国語です。外国語を学ぶのは、何も外国人と楽しくお喋りするためだけではなく、自らの思考力を磨くためでもあるのです。一歩一歩着実に努力すれば、難しいことを考えることが得意になると思います。言葉を用いて難しいことを考えることができるようになれば、他教科の理解も深まるでしょう。 ◆ センテンスの構造とパセッジの構造 大学入試等で目にする英文は、一定数のワード(語)からなるセンテンス(文)、数本のセンテンスからなるパラグラフ(段落)、そしてそのいくつかのパラグラフからなる一つのパセッジ(節)、このパセッジ全体を読み通すことを要求しています。少し前になりますが、パラグラフ・リーディングというのが流行りました。パラグラフ・リーディングの根本思想は、ディスコースマーカー(談話標識)に注目するというもので、それ自体は正しいのですが、センテンスの分析を軽視する愚か者を多数生み出してしまったのではないかと思います。センテンスの分析には文法的な道具立てが必須です。生徒さんの現状にもよりますが、短文読解のための文法的基礎を重視して指導が開始するかと思います。時々(最近見かけませんが)「文法なんて気にしなくていい」という帰国子女風の言語観をお持ちの方がありますが、それは自分の恵まれた成功体験をひけらかしたいだけの場合が多いので、適当に憧れているふりをしておけばいいと思います。日本語と西洋語とは余りにもかけ離れており、ごく普通の日本人が英語を身に着けようとすれば、文法を基礎にするのが正道です。 次にセンテンスを超えたレベルの読解ですが、これは徹頭徹尾「文脈を意識する」ということに尽きます。常に筆者の言わんとしていることに留意し、論旨の転換を常時監視して読むことです。先ほどのディスコースマーカーは文脈を意識するための一つの方法、最低限の作法に過ぎません(ディスコースマーカーさえ知っていれば、英文がすらすら読めるということではないということです)。当たり前のことですが、文章には内容があります。内容を度外視してディスコースマーカーを追いかけても、空虚でしょう。「文脈を意識する」ためには妥協なく、読み込むというよりほかありません。これには適切な指導者(あるいは伴走者)が必要な場合が多いでしょう。その適切な指導者たるは己なりと喧伝するほどに自惚れてはいませんが、そのお手伝いができれば幸いです。 ◆ 分析と総合 これまでは、主にセンテンスなりパセッジなりを分析する、すなわち「ばらばらにして解体する」ことを中心にお話しました。しかしながら、言葉には生命がありますから、それをひとつの有機体として総合的に受け取れるようになる必要があります。解体された記号を人間の言語として、そこに生命を吹き込み、自らの血肉にしていく営み(意味を込めて発声すること)としての音読を強くお勧めしています。近年の長文問題集は音源の付属していないもののほうが珍しくなっています。 ◆ まとめと「その後」について 上述のような分析的知性と総合的感性の果てには、おそらくではありますが、知と情のバランスの取れた人間が育ち、社会において有意義な影響を与えうるのではないかと希望的観測を抱いています。 ここでは触れませんでしたが、大学入学後は、文章の正確な読解に加えて、文章それ自体を批判的に考察していく知性が要求されるでしょう。ですが、それは正確な読解の裏面のようなもので、正確な読解はむしろ批判的思考に支えられているところもありますから、そうした能力も自然に身についていくのではないかと思っております。 ② 生徒さんへのメッセージ 皆さんは今、多かれ少なかれ学生生活を満喫しているかと思います。毎日のように学校に通って授業を受け、休み時間には友人と笑い話をして、放課後は部活動に励み(あるいは一目散に帰宅し)、家では宿題をこなして翌日に備える。大方はこうした穏やかな日々を送っていることと思います。しかしながら、中学・高校と年齢を重ねていくにつれて、そろそろ将来のことを考えなければならないというような「空気・雰囲気」を肌で感じることも多くなっているでしょう。これは周囲の大人たちが皆さんに期待(あるいは心配)しているからであって、当然のことと言えるでしょう。 身近な将来といえば「進路・進学先」です。普通科の高校に進むのか、工業科などの職業高校に進むのか、高等専門学校(高専)に進むのか、等など。遠い将来といえば、なりたい職業は何か、ということでしょう。未来のことなど、誰一人として予測はできないのですから、日々を楽しく過ごしつつも、時折、一抹の不安を思い起こすことがあります。2020年の学研の調査によると、将来なりたい職業が「わからない」と答えた中学生は50%だったそうです(2017年は32%)。近年、AIによって仕事がなくなるという考えがまことしやかに囁かれています、いやむしろ大々的に喧伝されています。こうした人々の不安を煽るような言説が流通する現代において、なりたい職業を夢見ることは難しくなっていると残念に思います。 しかしながら、AI時代が到来しようとも、何もAIがAIのために存在する世の中になるわけではありません。我々の時代は、その滅びのときまで、人が人のために生きて死ぬ、人間の時代です。人間の時代に必要なのは、目まぐるしい速さで情報を処理する機械ではありません(そこそこのスピードは必要ですが)。必要とされるのは、よい人間、すばらしい人間、立派な人間です。ですが、この立派な人間というのは、一体どのような存在なのか。これは容易に回答しうる問いではありませんが、ごく安直な二つの例を示したいと思います。例えば、スポーツ選手。彼らは、お米を作るわけでも、運ぶわけでもなければ、売るわけでもありません。人間にとって直接役に立つような生産活動には従事していません。しかし彼らは、一つのことに集中して打ち込み、すばらしいプレーを我々に示してくれます。その見事さに我々は心を動かされて、彼らに声援を送り、サポートするわけです。警察官や消防士も、普段は直接お世話になることはありませんが、いざというときのために日頃から訓練してくれているわけです。無論、以上のような職業に是非就いてくださいというわけではありません(江戸時代から言われているように、基本的に職業に貴賎はありません)。あくまで分かりやすい例としてお示ししたまでです。 いずれにしても、将来への不安は消えることはありません。しかし、不安を抑える方法があります。それは「一つのことに集中すること」です。勉強にせよ、部活動にせよ、役に立つかどうかという打算的な考えは抜きにして、一心不乱にそれに取り組むことです。その態度に人は心動かされて、あなたを立派な人だと言って支援してくれるでしょう。受験勉強が必要な人は、受験勉強に集中すればよいのです。このとき、「日本人だから英語なんて要らない」とか「歴史なんて知っても役に立たない」とか「人生で連立方程式を立てることなんてない」などと考えるのは邪念(いわば怨霊のようなもの)です。集中が阻害されてしまいます。教師の役割の一つは、そうした怨霊に真摯に向き合って成仏させ、この集中力を維持するのを手助けすることにあると思います。そのお手伝いができれば、この上ない幸せです。 ③事務的なご連絡 当方は、大学院生です。前期はもう終えましたので、8月と9月は比較的都合がつきやすい状態です。現在、対面にて家庭教師の生徒を1名指導しているため、月曜日の19時〜22時と木曜日の19時〜22時はご予約いただけません。10月以降、後期の予定は未定ですが、金曜日はゼミのため、夕方以降の指導は難しと思います。 ④ だらっとした自分語り ◆ お読みになる前に 聞かれてもいないことを延々と、恥も外聞もなく繰り返しているだけですので、私の1ミリもないブランドに傷がつくので、できれば読まないでください。 自己紹介を丁寧にしようとしたら、身も蓋もなく、だたの汚い人間をお客様の前に晒すことになるということを今回で学びました。 ◆ 略歴 2010年4月 神戸大学法学部入学 2015年9月 神戸大学法学部卒業 2015年10月〜2016年9月 佛教大学通信課程 2017年4月〜2019年3月 関西学院大学文学部 2022年4月 京都大学文学研究科入学 ◆ 大学入学まで 地域の公立の小中学校から地元の「自称進学校もどき(偏差値50くらい)」に進みました。自分の受けた教育を振り返ると、虚しくなるくらい悲惨で、理論的な深みのない教師や精神論一点張りの体育教師に囲まれていました(そして己の才能を嘆くは彼らを偉い人だと信じてしまったことです)。こういった教師は典型的な、生徒らと一応友好的関係が築けていれば教育は成功していると信じて疑わない人たちだろうと思います。唯一救いであったのは、高校のときの英語教師が若く比較的勉強熱心で、英語を理論的に読むことを教えてくれたことでした(思想的深みはゼロでしたが)。こういった地道な英文読解を経て、何とか分析的知性の種のようなものを貰い受け、大学受験を乗り切ることができました。余談ですが、高校入試の面接のとき、私が「国公立大学に進学したいと考えています」と言いましたところ(その実、親から勧められただけですが)、面接官の中年男性が困惑してクスッと笑ったのを記憶しています。その当時は若干の不愉快さを感じただけでしたが、この年になってみると、やはりクソ教師だと思いますし、翻って考えてみますと、自分の言動が生徒の精神のあり様を規定することを教師は意識しなければならないと自戒する次第です。これまた余談ですが、今ごく普通の公立高校生の家庭教師をしていますが、そういった類のクソ教師は相当な比率で存在しているようです(再生産され続けているのだと思います、個人の資質というよりは構造的な問題も大きいとは思いますが)。もしこれを読んでくださっている奇特な方があれば、是非「クソ」と「クソでないもの」を嗅ぎ分け、「クソ」とどのように向き合うのが最も合理的か考えてみて欲しいと思います。 ◆ 大学入学後 実は大阪大学を目指していたため、入学当初は不本意な気持ちで過ごしていました。実力の伴わないプライドの高さとその視野狭窄たるや、目を覆いたくなります。そのころの私は、典型的な学校教育的労働者で、「正しい」テキストやマニュアルがあって、その手続に則れば「正解」を得られると無意識に思っていました(ただの馬鹿者です)。すなわち、主体性のない受け身人間です。これでは知性が発達するはずがありません。同級生のうちでは、すっかり「劣等生キャラ」が定着し、私の方はというと、道化を演じることに興味を持ってしまいました。しかし、これまた実力の伴わないプライドのせいで、法律家を目指していますなどと自分に嘘を付きながら、面白いと感じていない法律学に無駄な時間を捧げていました。 ◆ 教育業界ではたらく アルバイトは大学1年生の10月から、始めました。それは丁度新規開校、新規展開された某映像授業予備校でした。何も知らない人が集まって、新しく環境を立ち上げていくことはそれなりに楽しかったと記憶していますが、そのある意味でのパイオニア精神が後に預言者的精神となって、私を苦しめることになります。 さて、その映像授業の予備校のスタッフとして何をしていたかと言いますと、要約すれば「一生懸命に授業を受けた(はずの)生徒をいじめる」ことです。一般的な生徒対応は、「生徒を適当に励まして、たくさん授業を受けさせて、お金儲けする」ことなのですが、私は謎の使命感にかられて「しっかり授業を理解させなければ」と気負っていました。そこで色々と生徒に質問してみるのですが、実態はというと、開いた口が塞がらなくなるほどに何も理解していませんでした。言葉とは恐ろしいもので、本人は「わかった」という言葉を使うのですが、私が質問することで何も分かっていないことが暴露され、気まずくなるということが多くありました(それでも何も感じない人には適当に怒りをぶつけていました)。私の孤軍奮闘も虚しく最終的に悟りましたのは、その塾に通っている生徒(の大半)は「分かった気になって帰りたい」だけで、保護者(の大半)も「有名な塾に預けて安心したい」だけで、塾側(の大半)も「小綺麗にパッケージ化された商品を手際よく消費させて、受かろうが落ちようが適当に慰めておきたい」だけであることでした。この厳然たる構造の内部で、私は歯車に逆行しようとしていたわけです、しかも一人で。 ◆ 大学卒業後 さっさと法律家になることは諦めて、次は教育者になろうと思っていました。その当時はまだ教育に対する情熱を失っておらず、桂枝雀的な道化の演技によって、生徒を楽しませて、それでいてしっかり勉強を教えれば上手くいくと妄想していました。そういうわけで、佛教大学の通信過程を始めるのですが、当時の記憶はあまりありません。YouTubeでダウンタウンのトークや落語をすっと聞いていました(ただの怠け者です)。 ただ、このころから自分の批判的視座が少しずつ形成されていったように思うのですが、それは教育学的なるもの(あるいは教師論)に対する違和感でした。いわゆる左翼的な思想(自由、平等、博愛)を無条件に振り回すような空気感、子供の過度な神聖化、理想的教師像の押し付けなどです。教職課程には思想的深みを見出すことができなかったのです。そうした味気なさ感じていたところに決定打を加えたのは、通学講座における或る講師の述懐でした。教育実習で寝る暇もなく疲労困憊している実習生に対して、その講師は「それでも頑張れ」的なことを言ったそうです。それを美談のように語る精神の異常さに私は呆然としました。一方では聖職として担ぎ上げておきながら、その待遇は奴隷のようです。公教育の人材不足や過酷な労働環境は広く知られていますが、その淵源をみたような気がしました。 アルバイトの方もなんやかんやで10年ほど続けていました。周りの同期どころか後輩すら卒業していく中で、私はすっかり老害化して色々と大失態を犯しました。 ある日、塾のお偉いさんが「スタッフの質が落ちているから、再教育して欲しい」と頼まれました。実際、私の同期や直近の後輩は真面目で優秀な大学生が多くて、実のところスタッフ教育などする必要さえありませんでした。しかしそういった人材が卒業していって、その質が著しく低下していたのです。実例を挙げれば、腸が煮えくり返ってくるのでやめますが、私はというとその改善方法を誤るとともに、自分が人間組織に向いていないことも悟りました。要は、先ほど述べたような塾の構造に、やる気のない大学生バイトの歯車が付け加えられて、その構造が一層強化されてしまっている、それにもかかわらず、今度はその歯車を拳で潰そうとしてしまったのです。新規開校のパイオニア精神による過去の美化が、預言者的精神(この組織はかつては美しかったが、今は腐りきっているから改革せねばならないという気持ち)となって私のうちに宿り、悪しき構造を破壊し、理想的な塾を再構築しようとしたのです。勿論失敗しました。これは本当に愚かで妄想的な設計主義でした。本当に社会の構造には手がつけられません。 ◆ 哲学と哲学研究 教職論の欺瞞が気味が悪くて仕方がなかったので、そして構造のどうしようもなさにやっと気がついたので、今は思想的深さのありげな哲学の方に足を踏み入れています。当初は研究者になってやろうと思っていましたが、周囲の研究発表を聞いて、自分には向いていないと思い始めています。差し当たりは、自分の関心を修士論文にまとめるために、努力したり怠けたりしています。
趣味お笑いを見ることです
学歴【学歴】 2010年 3月 常翔啓光学園高等学校 卒業 2015年 9月 神戸大学 法学部 法律学科 卒業 2015年10月-2016年9月 佛教大学 通信課程 2017年 4月-2019年3月 関西学院大学 文学部 哲学倫理学専修中退 2022年 4月- 京都大学 文学研究科 思想文化学専攻 西洋哲学史専修 在学 【職歴】 2010.11-2019頃まで 河合塾マナビス勤務
指導/合格実績【合格実績】 大阪府立香里ケ丘高等学校・1名

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