現代文のキーワード②分節化することは切れ目をいれること🔪
今回は分節化という単語を勉強してみましょう。
「文節」という言葉はきいたことがあるかもしれませんが(僕は/ラーメンを/食べる、といったように意味のまとまりで区切ることを「文節にする」といったりしますよね(^^♪)
「分節化」は違う意味なので注意です。
分節化とは、要は、世界に切れ目を入れて、言語にくみいれることです。
実は言語とは、この分節化によって成立している体系(システム)と言語哲学では考えます。
どういうことかというと、「砂」と「砂利」と「石」という三つの言葉がありますが、ここまでは砂、ここまでは砂利、ここまでは石と。この場合は「粒の大きさ」で、切れ目を入れていきます。これが分節化です。
ある種の類似性をもつものと差異性をもつものを区別すること。そうしてその切れ目によってできた面の中に属するものを、すべてその言葉(この場合、砂、砂利、石)で表象(代理)することができます。これが言語の正体です。
簡単に言うと、この世に同じ形の石は存在しません。
本当はすべてが差異をもった石であるのにもかかわらず、わたしたちはそれらを同じ「石」という言葉で代理することができます。
もしこの代理作用がなかったら、私たちはすべてのものに別の名前をつけなければいけません。つまり石A、石B、石Cとすべてに別の名前をつけなければいけないのです。
そうするとどうなるかというと、人々とコミュニケーションをとることができなくなってしまいます。なぜなら、言語とはコミュニケーションを縮減する作用をもたなければいけないからです。相手が意味することを理解するには、相手が切れ目を入れている言語のシステムを内面化=理解することで初めて、「あ、石ね!はいはいあの硬いやつ!」と共通理解を図ることができます。
つまり、わたしたちは、お互いがお互いの話していることを理解するために、同じように切れ目を入れた=分節化された、差異の体系=言語のシステムを共有しています。
これが言語の分節化ということです。
そしてさらに大切なことは、その言葉自体はとても恣意的なものであるということです。恣意とは勝手であることを意味しますが、つまり、そもそもその「粒」を「砂」ということは勝手な命名です。粒を犬と呼んでもよいわけですね(原理的にそうなのです(;^_^A)
次に、どこから砂利と呼ぶかも恣意的=勝手に決められているものです。
つまり言葉と実物との関係は、本当は関係がないのです。勝手に決められたものです。これを言語の恣意性といいます。
日本語ではちょうちょと蛾を区別しますが、フランス語では同じパピヨンといいます。これは日本語では二つを分節化するけれど、フランス語では分節化しない=同一のものとみなす言語体系を持っていることの証ですし、言語は勝手に恣意的に名付けられることの証でもあります。
実体を「①恣意」的に「②分節化」し、言葉の意味するもの=「③表象」を共有する「④体系(システム)」
これが言語です。
①②③④ともすべてキーワードになる重要なものなのでぜひ覚えておきましょう。
言語哲学の話が出てきたら大体この話を共有しているはずなので、
「言語はしっかり根拠があって合理的に決定されている」みたいな選択肢はだいたい×です。
なぜなら「言語は恣意的なものだから」です。
ここまでご一読ありがとうございました(^^♪