表現と論理はつながっている【解説編】
みなさまこんにちは。今日はすごい雪が降ってきてすこし動揺している島田です(;^_^A
これから買い物やらお迎えやらに行かなければいけないと思うとどうしようかなと、、、。
閑話休題。
さて、前のブログで石田衣良さんの『「迷う」力のすばらしさ』という教材の中の冒頭文について触れました。
「キーワードをひとついれて、エンターキーをたたく。」
これがこの教材の冒頭の一文です。
この文章がすべてを物語っているといっても過言ではないこの教材。
ではこの一文にどんな工夫がされているか考えてみましょう。
①漢字がないこと
②「ひとつ」であること
③「たたく」であること
これらの工夫があることに気付けるでしょうか。
たとえば、「検索したい言葉をいくつか入れて、エンターキーを押す。」
という文章と「キーワードをひとついれて、エンターキーをたたく。」
という文章では与える印象が異なりますよね。
では、なぜこのような工夫をしたのか。その「効果」を考えてみましょう。
それは「簡単さ」を演出することです。
漢字がなければより幼稚である様子を表現することができますし、複数ではなくて「ひとつ」入れるというのも容易であることを表現し、「たたく」という動作もすばやく容易であるさまを演出しています。
では、簡単さを強調することで何を表現したいのでしょう。
それはこの文章のタイトル『「迷う力」のすばらしさ』にある通り(タイトルと対比的に)、インターネットや検索エンジンは「迷わなさ」を持っていて、簡単すぎる、すばらしくないものだ、ということです。
もうこれで、作者が言いたいことはわかりますね。
×インターネットは容易で便利だけど、迷うことがなくなってすばらしくない
〇逆に、本や書籍などは手間がかかるが、迷うことがあってすばらしい
こんなことを言おうとしている文章だということができます。
何を言いたいかというと、わたしたちはコミュニケーションをとっているとき、文章を読んでいるとき、「論理構造だけ」に触れているわけではありません。
実は言葉の表現自体が意味を発していて、それらのある種の「雰囲気」を読み取って私たちはコミュニケーションをとっています。
わたしはこの表現を大切にして、いままで国語の授業をしてきました。
もちろん論理構造を読むことも大切ですし、それらが入試の問題になることがほとんどでしょう。ですが、それ以外に、表現のもつ工夫や効果を問う問題も一定程度あるのは事実です。
そして、それらの表現の問題は、「落としやすい」と思います。
なぜなら、国語教育はそれらをあまり教えないからです。特に高校になってから急に教えなくなります。
論理と表現は別物ではなく、つながっていると思います。むしろ、なぜこの表現を使ったのだろうと考えることが論理に先立ってあるように、私には思われます。
国語の実りある学習のために、なにかありましたらお気軽にお声がけくだされば幸いです。みなさんの表現への感覚が養われますように(^^♪