万葉集と「コンビニ人間」をつなぐもの――言葉はこころに形を与える
最近、ふとした瞬間に、なんで講師をしているんだったっけ??と思うことがあります。
私はなぜ、国語なんていう科目を教えているんだろう、と。
自分でもよくわからないまま、気づけば教壇に立っているような気がする時さえあります。
もちろんテストの点数を取るため、志望校に合格するためというのは大前提なのですが、どうもそれだけではない、もっと別の何かを教えたいなぁという感覚があります(;^_^A
たとえば、万葉集にある狭野弟上娘子の一首。
「君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも」
【訳:あなたが遠くへ行ってしまうその長い道のりを、手繰り寄せてパタパタと折り畳み、焼き尽くしてしまいたい。そんな天の火が欲しい。】
この歌の凄みは、ただ「寂しい」と泣くのではなく、自分の内側にある爆発しそうな情念を「道を畳んで焼く」という圧倒的な物理アクションとして描き切った表現力にあります。
もし彼女にこの表現力がなかったら、その想いは出口を失って、ただ自分を内側から焼き尽くすだけの苦しみで終わっていたかもしれません。
私たちは日々、心の中に名前のない「もやもや」を抱えて生きています。
かつて作家のリービ英雄さんは、ツインタワーが崩落するあの9.11の光景を前にして、悩みに悩んだすえに古語の「千々に砕ける」という言葉をたぐり寄せました。
ただ「壊れる」という言葉ではこぼれ落ちてしまうあの非現実的な惨劇を、その言葉を当てることでようやく自分の心の中に定着させた、その瞬間の、戦慄するような、けれど確かな手応え(たとえそれが筆舌に尽くしがたい出来事であったとしても私たちはそれを表彰しなければならないという覚悟とともに)。
芥川賞をとった『推し、燃ゆ』も『蹴りたい背中』も『コンビニ人間』も。
私たちがそれらの言葉に惹きつけられるのは、自分の中にある正体不明のもやもやに、ピタッと重なる表現を著者が提示してくれるからです。
言葉にすると、もやもやは消えていく。でもそれは失われるのではなく、表現という形を与えられて自分の外側に定着するということです。表現を見つけることは、自分自身を定義し直すことであり、混沌とした世界に自分なりの形を与える冒険でもあります。
私が国語を教える理由は、結局のところ、生徒さんたちにその「発見の喜び」を知ってほしいからなのだと思います。借り物の言葉で自分を騙すのではなく、自分の中にあるもやもやに、たった一つの、これ以上ない名前をつけてあげること。そのために私たちは言葉を読み、言葉を話している。
1300年前の彼女が「道を焼きたい」と叫んだあの情熱と、現代の私たちが必死に言葉を探す姿は、一本の線で繋がっています。そんな言葉の奥深さを、これからも生徒さんと一緒に面白がっていきたいと思っています。