綺麗な解法を見せる授業ほど危ない
塾の体験授業を見学したことがある保護者の方から、こういう感想をよく聞く。
「先生の解説がすごく分かりやすくて、子供も理解できたみたいです」
その感想が出た時点で、僕は少し心配になる。
分かりやすい解説を聞いて理解した気になることと、試験会場でその問題が解けることは、まったく別の話だからだ。むしろこの2つは、ある意味で反比例する。
「理解した気」という最も危険な状態
以前、ある塾の研修で、ベテラン講師の授業を生で見る機会があった。難しい問題を前にすると、本当に鮮やかな解法を展開する先生だった。見ている側が思わず唸るような手順で、式がすっきり並び、答えへの道筋が美しく照らされていく。
授業後、生徒たちの顔には満足感があった。保護者の方も「なるほど」という表情をしていた。
問題は翌週にある。
同じタイプの問題が出たとき、その満足感はほぼ再現されない。
なぜか。あの鮮やかな解法は、長年の指導経験を積んだ講師が、問題の構造を深部まで把握した上で選択した「最適解の提示」だからだ。見ている側は「分かった」と感じるが、実際には「分かりやすく見せてもらった」に過ぎない。その解法を試験本番で自力再現できる小学生は、ほぼ存在しない。
僕はこれを「池上彰現象」と呼んでいる。池上さんのニュース解説は本当に分かりやすい。でも翌日には何も覚えていない。あの「分かった感」は、理解の深さではなく、提示の巧みさから来ている。
授業の満足度と、解法の定着率は別物だ。
本番の試験会場で何が起きているか
中学受験の算数の試験を、正面から見てきた経験から言う。
難関校の最後の数問を除けば、上位合格者の多くは、実は「綺麗な解法」で解いていない。
制限時間の中で、条件を整理して、数字を当てはめて、合わなければ別の方向を試す。図を書いて、線を引いて、泥臭く手を動かしながら答えを探す。エレガントとは程遠い。でもそれが、現場で機能する解法だ。
僕は以前、Sクラスの生徒に解き方を教えていない問題を出したことがある。難関校の過去問の一問だった。次の授業で見ると、その子は正解していた。どうやって解いたか聞くと、「解き方分からなかったから、条件に合う数字を全部当てはめました」と言った。
頭の中で高速に仮の数字を試し、条件に合わないものを排除していく。エレガントではない。でも正確で、速くて、再現性がある。それが試験会場で機能する解法の正体だ。
パワープレイという思想
サッカーにパワープレイという戦術がある。技術的な洗練とは距離を置いて、とにかくボールを前線に蹴り込み、体力と圧力で相手ゴールに迫る。見た目は粗い。でも結果を出す。
僕は算数の指導でこれを意識的にやる。
解き方が分からなくなったら全部書き出す。規則性の問題なら、数を端から書いてパターンを見つける。割合の問題なら、条件を満たすケースを手で確認する。面積比が分からなければ、補助線を引きながら試す。一見遠回りに見えるこの作業が、概念を「頭で理解する」から「手で知っている」状態に変える。
以前担当した成功学院に進んだ男の子がいる。数列の問題を授業中に出したが、終わらなかった。翌日持ってきたノートを開くと、小さな数字が何百個と書いてある。「解き方忘れたから全部書きました」と言った。
その子はその後、似たタイプの問題を出すと、ほぼ瞬時に解法を見つけた。なぜか。全部書いた経験が、数列のパターンを「頭のイメージ」として定着させたからだ。理屈ではなく、手を動かした記憶として残っている。
説明を聞いて理解する速度より、書いて失敗して掴み取る速度の方が遅い。でも定着する深さが根本的に違う。
美しい授業が量産する「上滑り」
「上滑り」という言葉を使うことがある。スキーで斜面を滑るように、表面はきれいに見えるが、雪面との摩擦がない状態だ。
知識の上滑りは、鮮やかな解説を受け続けた生徒に起きやすい。解説を聞くたびに「分かった」という満足感が得られるので、本人も保護者も手応えを感じる。でも次に同じ問題が出ても解けないし、類題に変形されると完全に手が止まる。
なぜか。自分で悩んでいないからだ。
算数の概念が本当に身につく瞬間は、問題と格闘して、行き詰まって、別の方向から試して、それでも詰まって、もう一度ゼロから考えたときにやってくる。その過程で生じた「なぜこの計算をするのか」「なぜこの図を描くのか」という疑問と答えが、解法を血肉にする。
講師が解説で先回りすると、この格闘が消える。格闘なしに与えられた知識は、借り物のまま試験会場に持ち込まれる。そして借り物は、現場のプレッシャーの下でまっさきに崩れる。
僕の授業で説明が少ない理由
体験授業を受けた保護者から「先生、あまり教えてくれないんですね」と言われることがある。
そうです、と答える。
僕の授業のスタイルはこうだ。例題を8割程度の説明で見せる。あとは生徒に解かせる。分からない問題が出ても、すぐ解説しない。「ここまでの数字を出してみて」「この条件でどうなる?」と順番に問いかけて、生徒自身に手を動かさせる。最終的に答えが出たとき、その解法は生徒が自分で探り当てたものになっている。
これは非効率に見える。1時間で教えられる量は確かに減る。
でも翌週に同じタイプの問題を出すと、高い確率で解ける。借り物ではなく、自分で格闘して掴んだものだからだ。
授業の密度と、解法の定着率は、別の軸で測るものだ。
親が明日できること
家庭学習での直しを見るとき、解法を教える前に一度だけ試してほしいことがある。
「この問題、どこまで自分で出せる?」
間違えた問題の条件を整理して、出せる数字だけ出させる。それ以上進めなくなったところで初めて、ヒントを一つだけ出す。全部は教えない。残りをまた考えさせる。
この繰り返しが遅く感じても、翌週に同じ問題を出してみると、解けている確率が上がる。それが定着だ。
分かりやすく教えることと、解けるようにすることは、目指すものが違う。前者は教える側の満足のためにあり、後者は受験生のためにある。
中学受験の算数は、試験会場で一人で解くものだ。そのとき手元にあるのは、自分で格闘して掴み取った武器だけだ。綺麗な解説の記憶は、そこには残っていない。