【勉強法】テストとは「教師が期待する答えを書くゲーム」だった|かつての僕の話
「正解を探すこと」が目的になっていた中高生時代
少し、自分の過去をお話しさせてください。
僕は中学時代、通知表はオール5。
偏差値70ほどの都立高校に進学し、定期テストでは常に上位。
内申点も安定して高い数字をキープしていました。
数学では、テスト範囲の問題集を何度も繰り返して「解き方」を丸暗記。
国語や英語では、教科書の文章をほぼ覚えてテストに臨む。
授業中は、先生が期待していそうな答えを先回りして発言し、「模範的な生徒」として振る舞う。
そんなふうに、「正解を出すこと」「評価されること」が勉強のすべてだと思っていました。
でも、あるときから違和感が出てきたんです。
・解けるけど、説明ができない
・定期テストは良くても、模試になると点が取れない
そんなふうに、テストでは結果が出るのに、どこか薄っぺらい自分に気づく瞬間が増えていきました。
「優等生」ほど見落としがちな、思考のワナ
中高生にとって、「内申点」や「定期テストの点数」はとても大きな意味を持ちます。
だからこそ、“評価される答え”を探す力はどんどん鍛えられる。
でも実はこれ、思考力を鈍らせる原因にもなります。
たとえば、
・模範解答に合わせるのが当たり前になっていて、自分の頭で考えることをしていない
・選択肢問題で「AじゃないってことはB?BじゃないならC?」と勘で当てにいく
こうしたクセが染みついていると、思考の土台が育たないまま、表面的な正解に頼るようになります。
かつての僕も、まさにそうでした。
本質的な理解が問われた瞬間、手が止まった
高校2年、3年と学年が上がり、外部模試や入試レベルの応用問題に本格的に取り組むようになると、急にうまくいかなくなりました。
「この式の変形って、なんで正しいんだっけ?」
「このグラフって、どういう意味を持ってる?」
──そう問われたとき、僕は何も言葉が出てきませんでした。
やり方は覚えていても、なぜそうなるのか?の説明ができないんです。
国語や英語でも、教科書の文章なら読み込んで対応できても、初見の長文になると歯が立たない。
「理解していたつもり」が、ただの記憶に過ぎなかったことに気づきました。
「間違える自由」が、僕の思考を変えた
転機は、浪人時代の予備校での経験でした。
ある数学の先生は「問題を見て第一印象でどう思うか?」を大切にしていました。
しばしば生徒にも意見を募り、返ってきた印象が想定と違った場合にも「それいいね、それで解こう。」「それじゃ厳しいけどやってみる価値はあるね。」などと肯定的に受け止めてくれました。
答えが間違っていても、思考のプロセスに価値を見出してくれる。
そんなやりとりの中で、僕はようやく「自分で考えること」に対して肯定的になれた気がします。
「正解を出す」よりも、「どう考えたか」を大事にする。
その経験が、僕にとっての学び直しの第一歩でした。
今、僕が大切にしている問いかけ
現在、僕は家庭教師やオンライン講師として、高校生に数学や物理を教えています。
その中でいちばん大切にしているのは、「答えを出す力」よりも「考える力」を育てることです。
だから授業では、こんな問いかけをよくします。
・「この式、どんな意味だと思う?」
・「何と何を比べてるか説明できる?」
・「自分だったらどう解く?」
もちろん、最終的には正解にたどり着くことも大切です。
でもそれ以上に、「考えていいんだ」「間違えてもいいんだ」という安心感が、思考の深さを生み出します。
学ぶとは、「教師の期待に応える」ことではない
かつての僕は、「教師の期待する答えを書くこと」が勉強の目的だと思っていました。
でも、今でははっきりと言えます。
本当の学びとは、自分の頭で考え、自分の言葉で説明できるようになること。
そして、自分の疑問や視点を大切にすることです。
最後に、この記事を読んでくれたあなたへ問いかけたいと思います。