重たいリュックを哲学する|子どもが背負っている「見えないもの」
あのリュックを見て考えたこと
うちの近所に、二つの中学校があります。
一つは進学で有名な私立の中高一貫校。
もう一つは公立の中学校です。
朝、前者の生徒は、
漬物石が三つくらい入っているのではないかと思うような、
大きな黒いリュックを背負って、うつむきながら歩いています。
一方で、公立の子たちは、
軽そうなリュックを背負って、
友達を追いかけるように走っています。
私は庭先で、ぼんやりとその様子を眺めています。
これは、ただの見え方なのでしょうか。
それとも、何かがあらわれているのでしょうか。
子どもは何を背負っているのか
重たいリュックには、もちろん教材が入っています。
ただ、それだけではない気もします。
・期待
・不安
・比較
・評価
そうした、目に見えないものも、
一緒に背負っているように見えることがあります。
では、その中学生は、
いったい誰の欲望を生きているのでしょうか。
自分のものなのか。
それとも、誰かのものなのか。
欲望はひとつではない
人の中には、いくつもの思いがあります。
・親の期待のようなもの
・社会の空気のようなもの
・そして、自分自身の感覚
それらが混ざり合って、
👉 どこまでが自分のものなのか、分からなくなることがあります。
「ほんとうは何をしたいのか」という問い
「ほんとうは自分は何をしたいのか」
この問いに、うまく言葉で応えられないとき、
人は少し元気がなくなるのかもしれません。
そう見えることがあります。
ただ、それも、
私がそう見ているだけなのかもしれません。
成績よりも大切なもの
どこに進学するか。
どのくらい成績を上げるか。
それももちろん大切です。
しかしそれ以上に、
👉 自分が何を求めているのかを、自分の言葉で言えるかどうか
これが、その人の学び方や表情を大きく変えるように感じています。
授業をしていて、私はそのように感じます。
哲学はむずかしいものなのか
哲学をやっていると言うと、
「賢いですね」と言われることがあります。
でも、実際にはそういうものでもありません。
難しいことを考えるというよりも、
👉 「うまく言えないこと」をそのまま考え続けること
に近い気がしています。
哲学=むずかしい・賢そうという方程式は
哲学界の広報不足によって生じた誤解でしょう。
言葉はどこから生まれるのか
同じ言葉でも、
・どんな前提を持っているか
・どこから考えているか
によって、手触りが変わります
だからなのか、
👉 頭の中だけで完結している言葉に私は、あまり関心が向きません。
言葉は、背景と一緒に出てくるものなのか。
それとも、言葉そのものに力があるのか。
まだ、よく分かりません。
さいごに
もし、
・なんとなく元気が出ない
・何をしたいのか分からない
・勉強しているのに手応えがない
そう感じているとしたら、
👉 「何をするか」の前に、「何を求めているのか」を考える時間が必要なのかもしれません。
私の講座では、
正解を教えるというよりも、
👉 自分の中にある問いを言葉にしていくこと
を大切にしています。
そこから、学び方も進む方向も、少しずつ見えてきます。