読めない子を、読める子にする。——私が国語を教える理由
——「主語と述語を正しく選んで」と何度言っても、その子は選べなかった。
幼い頃、母が毎晩絵本を読んでくれた。長女だったせいか、丁寧に、毎晩。気づけば小学校入学前に低学年向けの本が読めるようになっていた。図書館に連れて行ってもらい、顔見知りの司書さんができた。本を読むことは、私にとって呼吸のようなものだった。
小学1年生の国語の授業で、先生が「文節を指で囲いながら読みましょう」と言った。みんながそうしているのを見て、なぜかまどろっこしくて、私はそのまま普通に読んだ。昼休みも外遊びの声を背に図書室にこもり、高学年では書写の宿題を先へ先へと勝手に進めた。中学生になると思春期の波に飲まれ、かわりに図書室の本を1日1冊読み、大学ノート見開き1ページに毎日1時間、自分の気持ちを書き綴った。それが高校卒業まで続いた。
気づかないうちに、私の中で言葉の「構造」が見えるようになっていたようだ。文を読むと、主語と述語が自然に浮き上がってくる。修飾語がどこにかかるか、わかる。それは努力の結果ではなく、長年言葉を浴び続けた末に育った、感覚のようなものだった。今では文章を面で読んでいるらしい。一行一行を目で追うのは未知のジャンルだけで、知っている内容なら視野に入った瞬間に意味が来る。
だから最初、「見えない子」のことが理解できなかった。
何度言っても主語と述語を正しく選べない高校3年生がいた。受験まで時間がない。でも怒っても叱っても意味がない。その子には、文の構造がそもそも「見えていない」のだと気づいてから、やり方を変えた。簡単な文から始めた。一文一文、構造を確認しながら、丁寧に。
学校の先生には「志望校は難しい」と言われていた。その子は合格した。
あの経験が、今の私の指導の原点にある。「なぜわからないのか」を理解しないまま、正しいことを言い続けても届かない。その子の「見え方」に合わせて、入口を変える。それが私の仕事だと思っている。