「考える」ことをやめれば、算数は解ける ― 脳を甘やかすための作法
窓の外では、冬の朝の光を浴びた丹沢の山々が、ただ黙ってそこにあります。ここ神奈川の秦野周辺は、空気が澄んでいる日は山肌の凹凸までくっきりと見えて、まるで巨大な精密画のようです。
そんな静寂の中で、塾の教室を見渡すと、時折「動かない彫刻」のような生徒に出会います。問題用紙を前に、ペンを握ったまま微動だにしない。彼らは決してサボっているわけではありません。むしろ、人一倍必死に「考えて」いるのです。
しかし、僕の経験上、中学受験の算数において「うーんと唸って考えている時間」というのは、実はあまり生産的ではありません。
脳という名の狭いキッチン
人間の脳、特に「ワーキングメモリ」と呼ばれる領域は、驚くほど狭いものです。都会のワンルームマンションにある、一口コンロのキッチンのようなものだと思ってください。
そこに「複雑な条件」「計算の途中経過」「図形の回転」といった食材を一度に並べようとすれば、あっという間にスペースは埋まり、床に食材が散乱します。これが「頭が真っ白になる」という現象の正体です。
算数が得意な子は、このキッチンの使い方が非常に「合理的」です。
「書く」という外部メモリ: 図や表を書くことは、狭いキッチンに「サイドテーブル」を継ぎ足す作業です。頭の中に置いておくべき情報を紙の上に移せば、脳は「保持する」という重労働から解放され、「処理する」という本来の仕事に集中できます。
具体と抽象の往復: 例えば「速さ」の問題で、ダイヤグラムを書くのを面倒くさがる子がいます。しかし、線一本引くだけで、複雑な文章題が「三角形の相似」という単純なパズルに変わります。
「解ければ、手段は何でもいい」。これが僕のスタンスです。算数のプライドを守るために頭だけで解こうとするより、図を書いて脳を甘やかしてあげる方が、結果として正解への距離は短くなります。
基礎の「自動化」という魔法
思考力を支えるのは、皮肉にも「思考を必要としない技術」です。
例えば、中学受験でよく出る「キセル算」と呼ばれる計算があります。
1 / (2 × 3) + 1 / (3 × 4) + 1 / (4 × 5) + ……
といった具合に続くものです。これをいちいち通分して考えるのは、火を起こすのに木をこすり合わせるようなものです。
部分分数分解という技術を「自動化」していれば、以下の構造(公式)が瞬時に浮かび、パズルのピースが消えるように答えが出ます。
1 / { n × (n + 1) } = (1 / n) - { 1 / (n + 1) }
つまり、さきほどの 1 / (2 × 3) は、「1/2 - 1/3」 と書き換えることができます。これを式全体に当てはめると、途中の数字が引き算と足し算で次々と消えていき、最初と最後だけが残る……という仕組みです。
「わかる」と「できる」の間には、深い川が流れています。
その川に橋をかける唯一の方法は、制限時間内での反復です。僕は生徒に、基礎問題を「3分」という枠の中で解かせます。精度を上げるのではなく、「迷っている時間を削る」ためです。プロの料理人が包丁を握る際、どこを切るか思考しないのと同じレベルまで、技術を肉体に染み込ませるのです。
時間という冷酷な相棒
僕の娘を見ていると、ゲームをしている時の集中力には目を見張るものがあります。制限時間が迫り、BGMのテンポが速くなった時の彼女の指の動きは、普段の勉強時とは別人です。
受験勉強にも、この「心地よいプレッシャー」が必要です。
余白を贅沢に使う: ノートをケチる子は、思考も窮屈になります。
ストップウォッチの常備: 1分1秒を「管理」するのではなく、「可視化」すること。
仮説で進む: 正解か分からなくても、まずは手を動かす。間違えたら、その軌跡が「この道ではない」という立派な情報になります。
結び:山を登るための合理性
秦野の山を登るのに、根性だけで突き進む人はいないでしょう。地図を持ち、適切な装備を選び、体力を温存しながら一歩ずつ進むはずです。
算数も同じです。「考えても解けない」のであれば、それは「考え方」が間違っているのではなく、「脳に無理をさせている」だけかもしれません。
もっと手を動かし、もっと図に頼り、もっと脳を楽にさせてあげてください。そうしてペンが滑らかに動き出した時、巨大な壁に見えた入試問題は、ただの「解かれるのを待っているパズル」に変わっているはずです。
……さて、僕もそろそろ、娘がゲーム機を置く前に、夕食の準備という「自動化された作業」に取りかかるとしましょう。
次は具体的にどの単元の攻略法を知りたいですか? 「比を使った図形問題」や「速さとダイヤグラム」など、特につまずきやすい単元があれば教えてください。その単元専用の「劇的勉強法」を、今回のように分かりやすく解説します。