読解力がないまま大学生になるとどうなるのか?
2025/6/10
読解力がないまま大学生になると、まずレポートを書くことができません。私が学部時代にお世話になった先生に聞いた話ですが、読解力がない学生の書くレポートはただの感想文なのだそうです。神道について論ずるべきレポート課題に、「うちの近所には〇〇という神社があって・・・・」というようなことを一生懸命書いてくるそうです。当然、いい成績は期待できないでしょう。
さらに困るのが、卒業論文です。卒業論文はさまざまな文献を読む中で立ち上がってきた問いをテーマとして、その問いに対する主張をつくり、論拠をもって論ずるという3つのことが必要になってきますが、読解力がないとそもそも本を読むことができませんから(印刷されている文字列をただ目で追うだけですから)、読む中から問いが立ち上がってきません。だから、いつまでも卒業論文を書くことができません。
しかし、卒業論文は締め切りがありますから、どうにか問いをでっち上げて書こうとしますが、でっち上げられた問いというのはニセモノの問いですから、そこから論がふくらむはずもなく、結局、引用ばかりの論文になる、といった具合です。
さらにひどいのが、勉強する習慣がないゆえに読解力がない人です。勉強する習慣のない人のうち、大学に進学できたできた人というのは、親がさまざまにブーストしてくれた人です。お金を払って家庭教師や塾に行かせてくれて、どうにか大学に入った人です。そういう人はそもそも、自分でどうにかする習慣と言いましょうか、生命力と言いましょうか、そういったものがありませんから、卒業論文の執筆時におおいに困ります。
参考文献なんて今どき、ちょっとネットで探せばいくらでも出てきますが、それすらしません。おそらく本人は、やらなくてはいけないという頭はあるのでしょうが、やりません。英語ができない中学生レベルの頭のまま、大学生になってしまっているわけです。
読むというのは脳の運動ですから、能動的な行為にほかなりません。みずから読む。誠実に読む。理解できるまで読む。私は授業をとおしてそのことを教えています。
なにも難しい話ではありません。誠実に読むというのは誰にだってできることです。学校は「読む」を「作業」にしてしまっているきらいがあるとわたしは感じます。それはそれで仕方ないのかもしれません。学校って忙しいから。
それに、「読む」とは、じつは半分は職人技なので、それを教えることのできる先生はおのずと限定されてきます。国語なら教えられると思ったから国語の先生になった、という人はまず教えられません。「文学少女」だった人が古文の先生になっても真に古文を教えることができず、「ああ、そこは文脈判断だから」と言うようなものです。それでは教えたうちに入りません。生徒はなにを手掛かりに文脈を判断するのかを知らないので途方に暮れているわけですから。
しかし、まずは誠実に読むことです。目の前にある文字列を理解できるまで何回も読むのです。話はここからはじまります。
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